ARTHUR-AQUAMARINE's MEMO

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◇ 01 日本の思想の源流

  • 日本の風土の特色と日本人の生活の源流を理解しよう。
  • 日本人の信仰、生き方、自然観の特色を理解しよう。
  • 日本の文化、思想の特色についての主要な考え方を理解しよう。

① 日本の風土と日本人の生活

日本人の先祖の由来
(1) 日本人と日本文化の起源
 形質人類学と考古学によると、いわゆる大多数の日本人は身体の形質上の特徴からは、アイヌの人々、本土の人々 ※(1)、沖縄の人々の三種類に分かれるとされる。
 その成り立ちは、12000年前~2300(2400)年前頃までは、狩猟採集を中心とする縄文人が北海道、本土、沖縄に住んでいた。そこに2300(2400)年前頃、水田による稲作や、鉄や青銅などの技術や知識を携えた人々が朝鮮半島から渡来し、北海道と沖縄をのぞく本土で、縄文文化も取り入れて、弥生文化を形成した。同時に本土の縄文人は、水田を作り始めて弥生人となった。朝鮮半島経由で渡来した人々と縄文系の人々が混じり合って生まれたのが本土の人々で、渡来した人々は北海道と沖縄には渡らなかったと考えられている。
(2) 海上の道
 柳田国男は日本人の祖先の一群が、南海の島々を経ながら海上の道をやってきたと推測した。古代中国の南海地方の人々が宝貝(子安貝)を求めて、宝貝の宝庫であった沖縄の島々にやってきたという。その時、水田耕作に使われていた稲穂や穂種を持ってきたと考えた ※(2)
風土とは何か
(1) 風土
 『風土』をあらわした和辻哲郎は、風土とは単なる自然条件のことではなく、「自然条件に対して人間が取る態度の仕方、生活様式のことである」としている。
(2) 風土の分類
 和辻は世界の風土をアラビアに見られる砂漠型、ヨーロッパに見られる牧場型、東南・東アジアに見られるモンスーン型の三つに分類した。
自然が恵みではなく死の脅威をもたらす砂漠では、人々の生活様式は世界に対して対抗的・戦闘的なものとなる。ヨーロッパのように従順で扱いやすい自然のもとでは、人々は自然の中から容易に規則性を見いだし、自発的・合理的に自然を支配する生活様式を営む。
(3) モンスーン型の風土
 モンスーンとは暑熱と湿気を含んだ大洋からの季節風のことである。モンスーンは一方では大雨、暴風、洪水などの自然の暴威の面と、他方では動植物の成長をうながすという自然の恵みの面を持っている。そのため人々は自然の恩恵を素直に受け入れようとする受容的態度と、自然の暴威が過ぎゆくことをひたすら待つという忍従的態度を育てる。
《 風土の比較 》
風土の類型牧場型砂漠型モンスーン型
主な地域ヨーロッパアラビア南~東アジア
自然従順・規則性
(おだやか)
極度の乾燥
(きびしい)
高温湿潤・洪水暴風
(豊かで気まぐれ)
人間のあり方自発的・合理的対抗的・戦闘的受容的・忍従的
生産の様式農耕・牧畜遊牧農耕
(4) 日本の風土
 日本はモンスーン型に属するが、独特の特徴を持っている。日本のモンスーンである台風は、季節的ではあるが突発的にやってきて、すぐさま去っていく。そこでは静かなあきらめの感情が、ときに強烈な激情に転化するという二重性格を示す。こうした風土は、花見や武士道のいさぎよさに見られるように、感情的に一気に昂揚しながらも物事に執着しない(あきらめの良い)日本人の心情を生んだ。また日本の気候は四季がはっきりと分かれ、その上絶え間なく変化していく。そのため日本人は自然の小さな変化を見逃さない繊細さを持ち、また常に変化を求める心情を育てた。
風土 - 人間学的考察
 自分はモンスーン地域における人間の存在の仕方を「モンスーン的」と名づけた。我々の国民もその特殊な存在の仕方においてはまさにモンスーン的である。すなわち受容的・忍従的である。
 しかし我々はこれのみによって我々の国民を規定することはできない。(中略)大洋のただ中において吸い上げられた豊富な水を真正面から浴びせられるという点において共通であるとしても、その水は一方においては「台風」というごとき季節的ではあっても突発的な、従ってその弁証法(※相反する性質を照らしてより高次な結論を導く議論法)的な性格とその猛烈さにおいて世界に比類なき形を取り、他方においてはその積雪量において世界にまれな大雪の形を取る。かく大雨と大雪との二重の現象において日本はモンスーン域中最も特殊な風土を持つのである。それは熱帯的・寒帯的の二重性格と呼ぶことができる。
和辻哲郎 『風土 人間学的考察』 (岩波書店)
日本人の生活
(1) 稲作農耕
 高温多湿の夏の気候は水田稲作を中心とする農耕に適したものであった。稲作は田植えや灌漑用水路の建設・保持を含む水の管理、収穫など、村落を中心とする集団による共同作業を必要とした。そのために日本では個人を中心とした考え方よりも、集団の作業や意向、あるいは集団での人間関係を重視する態度が生まれた。
(2) 村落と生活
 稲作農耕を中心とする人々は、主として、平地の村落共同体で生活を営んでいた。平地は人間の領域であり、平地の周囲を区切る山や海は、見知らぬ他界に通じるものと考えられていた。他界は神や仏の世界であり、生命や霊魂はそこからやってきて、死後はそこへと帰っていく世界であった。春は他界から新たな生命力がもたらされるときであり、自然の四季の移り変わりは円環するととらえられていた。生と死はひとつながりのものであった。
(3) 外来の文化に対して
 日本人は外来の文化に対して寛容的で、どんなものでもこれを取り入れ、これと知的に対決するよりも、これを咀嚼することに重点をおく傾向がある。そこには日本人の共生の態度柔軟性が見られると同時に新しいものに対して厳しく対決して、これを吟味しながら真実を決定していこうとする態度に欠けるものがある。
日本人の自然観
(1) 自然との交流
 日本人にとって自然はそれを従わせることによって利用すべきものというよりも、そこにおいて私たちが生きる基盤のようなものであった。しかもその自然は決して抽象的に捉えたり、客観的に捉えられたりするものではなくて、私たちが様々な自然物との交流を通じて具体的な生活の中で身近に感じるもの、しかも何か奥深い、捉えきれないところのあるものであった。
 人々は自然の美しい姿や崇高な姿のうちに、自分たちの理想とする在り方をみた。『万葉集』には恋愛や日々の苦労を謳う歌とともに、自然の姿をそのまま謳うものも見られる。万葉の詩人たちが自然の姿をあらわすのに用いた「きよし ※(3)」や「さやけし ※(4)」は自然の純粋で透きとおった清らかさを表すとともに、人間の心の在り方の理想を表したものでもあった。
(2) おのずから
 自然には「おのずから」という意味もある。日本人は人為的な技巧(わざとらしさ)を避け、自然にものごとが成るのを好んだ ※(5)。ここでは自然はわれわれがそこから生じて、そこへ帰る根源に近い。人々は自然のうちに最後の安らぎを見いだしてきた。道元や良寛の歌 ※(6)の中には自然の計らいをそのまま受けて自足する姿が見られる。
日本人の起源
柳田国男海上の道
和辻哲郎の風土
モンスーン型砂漠型牧場型
日本の風土
温帯モンスーン型 = 二重性格
日本人の生活
稲作農耕 = 集団での人間関係を重視
注釈
(1) 本土
ここで用いている本土とは本州、四国、九州を合わせた地域のことである。
(2) 海上の道
柳田が海上の道を構想したのは、24歳の時に愛知県:渥美(あつみ)半島の伊良湖岬で黒潮に乗って遠い島から流れついた椰子の実を見たことがきっかけとなったというのは有名な話である。この話を聞いた友人の島崎藤村は『椰子の実』の詩を作り、『椰子の実』の歌ができた。
(3) きよし
万葉集の歌(巻7)
みな人の
恋ふるみ吉野
今日見れば
うべも恋ひけり
山川清み

【訳】
人はみな行ってみたいと願っている吉野。今日訪ねてみれば、なるほど、訪ねたいと願うはず。山も川も神々しくて。
(4) さやけし
万葉集の歌(巻3)
昔見し
象の小川を
今見れば
いよよさやけく
なりにけるかも

【訳】
昔見た象(さき)の小川を今見てみると、ますます清らかになっていました。
(5) 自然に成るのを好む
丸山真男は、日本神話の世界をキリスト教の「作る」に対して内在するムスビ(産霊)の霊力によって絶え間なく内発的になりゆく世界と捉えている。
(6) 道元や良寛の歌
春は花
夏ほととぎす
秋は月
冬雪さえて
涼しかりけり(道元)

【解釈】
自然なままが素晴らしいことを謳っている。

形見とて
なにかの残らすむ
春は花
山ほととぎす
秋はもみぢ葉(良寛)

【訳】
形見として私が残すとしたら、古里の山々に見られる春は桜花、夏はほととぎすの鳴く声、秋は紅葉であろう。
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◇ 01 日本の思想の源流

  • 日本の風土の特色と日本人の生活の源流を理解しよう。
  • 日本人の信仰、生き方、自然観の特色を理解しよう。
  • 日本の文化、思想の特色についての主要な考え方を理解しよう。

② 日本人の信仰

八百万(やおよろず)の神
 日本の古代の神々を総称して「八百万の神 ※(1)」という。『古事記』や『万葉集』に見られる言葉で、「八百万」は実数ではなく、神の数が極めて多いことを言っている。
自然神
 山岳、岩石、海、大地、動植物、風、雷などの自然現象を神格化した自然神も多かった。さまざまな事物に霊的存在が宿る ※(2)とする考えをアニミズムと言っている。『古事記』や『日本書紀』などにあらわされた日本古来の神々は総称して「八百万神」とよばれる。そこでは人間はもとより山や海などの自然物や鳥獣などの動物、さらには禍などの抽象物も神とされている。
産土神(うぶすなかみ)と氏神(うじがみ)
 神々のなかでは、それぞれの土地を支配する土地神が基本的な存在であり、やがて国土開拓と国土守護の産土神の源流となった。また一族の共同体の守護神が氏神であり、一家神ともよばれた。
記紀(きき)の神
 古代国家が形成される過程で、神々が神話として総合されていった。『古事記』と『日本書紀』にはそうして総合された神々の系譜が語られ、現実世界の統治者であった天皇につながるものとされている。この世界の始まりに登場する天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)もキリスト教に見られる世界の絶対的な造物主ではなく、どこからか自然に登場してくる「おのずから成る神」である。この国はイザナキの命(みこと)とイザナミの命の二神によって生み出されたとされている。しかしそれらの二神の国生みは、より上位の「天つ神」の命令によってなされたとされている。
祀る神と祀られる神
 和辻哲郎は神には「祀る神」「祀られるとともに祀る神」「祀られるだけの神」「祀りを要求する祟りの神」の四種類がおり、さらに祀られる神よりも祀る神の方が尊さにおいて優れている、と言う。神々の国である高天原の中心的な神とされた天照大神(あまてらすおおみかみ)は「祀られるとともに祀る神」であった。日本神話で最高神とされる天照大神でさえも、決して絶対的な支配者のようには振る舞ってはいない。ものごとを決定するときには神自らが占いをしたり、他の神々と相談したり、また他の神に祈ることすらしている。
日本人の死生観
 日本人にとっては死とはタマ(魂)が身体から離脱することであった。まだ新しい死者のタマはアラタマ(荒魂) ※(3)と呼ばれ荒々しく、人に危害を加える危険な存在であった。タマは供養され、時間を経ると荒々しい性質を失い穏やかなニギタマ(和魂) ※(3)へと変化する。やがて年数を経るとタマは個性を失い、祖霊とひとつになり、祖先神となる。タマが神となるのには33年かかるとされている。
祖先神
 記紀に見られるような神の他に民衆の間に伝えられてきた神々もいた。民俗学者の柳田国男は「常民」の間に伝わった祖先神を明らかにしている。彼によれば、人は死後霊魂となって子や孫たちの供養や祭りを受けて祖霊となり、故郷を望む山の高みに宿って子孫の繁栄を見守る。そして盆や正月などにはその家に招かれて食事をともにして交流する、というのである。
 また折口信夫は神の原型を、異界にある理想郷である「常世(とこよ)」から定期的に村々を訪れて人々の饗応を受けて去っていく「まれびと(客人)」 ※(4)にあると考えた。こうした神との交流から日本の伝統芸能や民間伝承は形作られたとした。
なまはげ (秋田県)
 秋田県男鹿半島の民俗行事。12月31日(大晦日)の夜か1月15日(小正月)の夜に行われる行事である。なまはげは、怠惰や不和などの悪事を諌め、禍を払う山の神々の使者(鬼・妖怪の類)である。「泣く子はいねがー」「悪い子はいねがー」と奇声を発しながら練り歩き、家に入って怠け者、子供や初嫁を探して暴れまわる。家人は正装をして丁重にこれを出迎え、主人が悪事の釈明や振る舞い酒をし、送り返すとされている。
御霊信仰
 神や死者の霊魂は祭りが不十分であったり不意に死んだりすると祟りを起こすと考えられた。特にすぐれて個性的な働きをした者や政争などで敗れて不遇の死を遂げた人の怨霊は御霊(ごりょう) ※(5)と呼ばれ、死後も強い霊威を持つ神となって、人間に働きかけると信じられた。また御霊はその祟りが強ければ強いほど、やがて人々にとって後利益をもたらすと考えられ、人々の信仰の対象となった。
注釈
(1) 八百万の神
神々には、自然神、観念神、人格神、祖先神などがいた。神は必ずしも人間にとって善く、優れたものだけではない。人間にとって害をあたえるものも神と考えられた。自然がもたらす災害などは神の祟りと考えられ、社を作って神を祭り、呪術によって祟りを静めようとした。
(2) 様々な事物に霊的な存在が宿る
本居宣長(もとおりのりなが)は『古事記伝』において、神社に祭られている神霊に限らず、人や鳥獣、草木や山海など、その他どんなものであれ、何らかの人智をこえた不思議な力を持つものは、すべて神と呼ばれた、と言っている。
(3) アラタマとニギタマ
アラタマとニギタマの二つはひとつの神の両面であるとともに、別々に祀ることができるともされた。アラタマは、これを祀ることによって働きが抑えられ、鎮められると考えられた。
(4) まれびと
海の彼方にあるとされる常世の国から定期的に子孫のもとを訪れ、作物の豊穣と子孫の安寧をもたらすとされた神である。
(5) 御霊
御霊信仰は平安時代に盛んとなった。管原道真(すがわらのみちざね)の霊を祭る京都:北野天満宮はその鎮魂のために作られたもので、御霊信仰の代表例となった。
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◇ 01 日本の思想の源流

  • 日本の風土の特色と日本人の生活の源流を理解しよう。
  • 日本人の信仰、生き方、自然観の特色を理解しよう。
  • 日本の文化、思想の特色についての主要な考え方を理解しよう。

③ 日本人の倫理感

善と悪
 日本は古くから農耕、とくに水稲耕作を生活の基盤としてきた。こうした作業は共同体が協力してなす必要があったため、共同体を基盤とした倫理が発達した。『古事記』にはスサノオ ※(1)の神がなした「畔毀(あはなち) ※(2)「溝埋め」 ※(3)などが共同体の秩序を乱す重大な罪としてあげられている。古代でも「善悪」ということが言われた。しかし、それらはキリスト教のように、唯一神に対する取り返しのつかない罪としては認識されなかった。
 「善・悪」は「ヨシ・アシ」とか「ウルハシキ・キタナキ」と読まれた。「ヨシ・アシ」は「吉・凶」とも書かれ、人を利するものは「ヨキモノ」であり、害するものは「アシキモノ」であった。「ウルハシキ・キタナキ」は他者との関係あるいは共同体(全体)との関係における心の在り様とか動作の仕方をあらわしている。すなわち、自分の利益のみを計る行いは他人のうかがえない「クラキ心(黒心)」「キタナキ心(濁心)」のなすものであり、これに対して私心を捨てて共同体のために尽くす行いは「ウルハシキ心」「キヨキ心」「アカキ心」のなすものであった。
清明心(清き明き心)
 清き明き心(きよきあけきこころ)清明心(せいめいしん)とは、神に対して欺き偽る「キタナキ心」がないこと、神の意思にかない、神の意思と一致している心のあり方をいう。また共同体の意向に反して、自己の利益のみを考える「キタナキ心」を克服し、他者のために尽くす「清き心」、隠しごとや嘘偽りのない「明き心」を意味した。他者や道理など、さまざまな対象に私心を捨てて向かう時のありようとして、後の「正直」や「」の源流となった。
祓いと禊(みそぎ)
 古代人にとって、共同体の秩序を乱すことや病気や自然災害などの日常生活を脅かすものは、穢れと考えられた。こうした罪や穢れを取り除くのが祓いである。特に、水に浸かって罪や穢れを洗い清めることをと言った。
祓いと禊 (山形県 熊野大社:厄年祓い(上) / 京都府 葵祭:斎王代御禊の儀(下)
慈愛
 古代では、なごやかな心情やしめやかな心情をもととする「慈愛」が大切とされた。先のスサノオの不法に対してアマテラスは岩戸に隠れただけであった。またこの不法への罰則は「八百万神」の会議によって決められた。私の立場での刑罰や復讐をよしとしない態度で、全体の立場に立った社会的正義が尊ばれたのである。村落共同体から国家におけるまで、統治者には人々に慈愛を施すことと全体的意志の現れである社会的正義を実現することが求められた。
日本人の倫理感
清き明き心けがれ祓い
注釈
(1) スサノオ
古事記と日本書紀の神話によるとスサノオ(須佐之男)はアマテラス(天照大神)の弟で、高天原を追われてナカツクニに降って国土を拓いたが、その子孫オホクニヌシの命は天孫に国土をささげて服属したという。
(2) 畔毀(あはなち)
畔放:田の堺を乱したり、水を引くための堺を取り放ったりして、水を湛えることができないようにすること。湛えておくべき水を干してしまうこと。
(3) 溝埋め
田に水を引く溝を埋めてしまうこと。
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◇ 01 日本の思想の源流

  • 日本の風土の特色と日本人の生活の源流を理解しよう。
  • 日本人の信仰、生き方、自然観の特色を理解しよう。
  • 日本の文化、思想の特色についての主要な考え方を理解しよう。

④ 日本人の美意識

自然と美意識
 日本の季節の変化に富んだ自然は、自然に対する繊細な感覚や感受性を育てた。また自然に対して受容的で恩恵を享受する態度は、自然を知性によって客観的に把握するよりも、対象と一体となって情緒的・直観的に把握することを得意とした。日本人は自然の変化や季節感に敏感で、生活のリズムも自然に合わせて過ごしてきた。こうした自然に対する敏感な感覚から「花鳥風月」や「雪月花」などの日本人独自の美意識が作られた。この態度は、自然の石や樹木などを自然にあるがままに配置する庭園や自然の素材をそのまま生かす料理によく表れている。
秋の紅葉(上)・冬の雪景色(下)
簡素と余情
 美を表現することに関しては、無駄を省いた簡素な形式が重用された。『万葉集』では長歌も用いられたが、『古今和歌集』『新古今和歌集』では31文字となり、俳句では17文字の表現となった。同様に簡素な形式の言葉に表現しきれない心の広がり(余情幽玄)が重視された。茶の湯のわび・俳諧のさびなどの美意識も無駄をはぶいた簡素な形式の一つである。しかしこの簡略された所作の中には過ぎ行く有限な時間のうちで無限に深い生命の充実を実現しようとの思いが込められている。
幽玄
 幽玄は藤原俊成(ふじわらのとしなり)が和歌論で用い、室町時代には、世阿弥(ぜあみ)が能において重視した。鴨長明(かものちょうめい)によると幽玄とは「詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景色(言葉にあらわれない余情であり、姿として見えない気配、雰囲気)」のことである。世阿弥は「よき能と申すは、本説正しく、めずらしき風体にて、詰めどころありて、かかり(姿)幽玄ならんを第一とすべし」と幽玄を重視した ※(1)
わび
 わびは鎌倉時代頃に和歌論などで確立した。元来は「わび住まい」のように、貧しく、失意・落胆のうちにあることを表す言葉であった。無常観の影響を受けて、ものごとの無常を感じさせる言葉となり、その無常の様を美的な情緒としてとらえることとなった。茶の湯を大成した千利休 ※(2)は世俗の飾りやおごりを捨てた質素で閑寂な境地をわびととらえ、静寂を重んずるわび茶を提唱した。わび茶は、極めて狭小・簡素な茶室で、さらに限られた時間で、かえって無限に豊かな美を見いだそうとするものであった。茶会は一期一会と言われるが、こうした考えがよくあらわれている。
さび
 松尾芭蕉は「さび ※(3)を俳諧の理念とした。さびは、心細さや物悲しさを表す「さびし」から生まれ、自己や世俗の無常を寂しく感じ、物事をいとおしく感じる、静寂で枯淡な境地をいう。
日本人の自然観
自然との一体感
日本人の美意識
余白、省略の美、幽玄わびさび
注釈
(1) 世阿弥の能
世阿弥は観客に与える珍しさや美しさなどの感動を「」と呼んで、舞台で花を実現することを演じる際の目標とした。「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず※」と語っている。

※「秘すれば花なり」の意味は「他人に隠しているものは、本当は大したものではない」である。 芸道の秘伝は、秘して他人に知られないことにより、最大の効果を発揮するが、秘伝されたものそれ自体は種明かしをしてしまうと必ずしも深遠なものではない。しかし、誰も気づいていないという、珍しさ、意外性により、感動を生む芸となったり、相手に勝つ秘策ともなる。
(2) 千利休
千利休は以下の二首をわびの境地を表すものとした。

《 藤原定家 ※1 》
 見わたせば
 花も紅葉もなかりけり
 浦のとまやの
 秋の夕ぐれ

《 藤原家隆 ※2 》
 花をのみ
 まつらん人に山ざとの
 雪間の草の
 春を見せばや

【※1 訳】
見わたしてみると、春の美しい花も、秋の紅葉もここにはない。海辺の苫葺き(とまぶき)の粗末な小屋のあたりの秋の夕ぐれは。

【※2 訳】
春といえば、花の咲くことばかりを待っているような人には、山里の溶けた雪間から顔を覗かせている若草にある春の風情を見せたいものだ。
(3) さび
さびの精神を表していると言われるのが以下の一句である。

《 芭蕉 ※3 》
枯れ枝に
鳥のとまりけり
秋の夕暮

【※3 訳】
秋の暮れ方、すっかり葉を落とした木の枝に、鳥が止まっていること。
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◇ 01 日本の思想の源流

  • 日本の風土の特色と日本人の生活の源流を理解しよう。
  • 日本人の信仰、生き方、自然観の特色を理解しよう。
  • 日本の文化、思想の特色についての主要な考え方を理解しよう。

⑤ 日本文化の特色(日本文化論)

重層的構造
 和辻哲郎は著書『続日本精神史研究』の中で、「日本人ほど敏感に新しいものを取り入れる民族は他にないとともに、また日本人ほど忠実に古いものを保存する民族も他にないであろう」と述べ、新しいものと古いものが重層的に共存する日本文化の特徴を指摘している。
 日常的な衣食住における和風・洋風の折衷関係にはじまって、宗教における神社崇拝・仏教・キリスト教の関係に至るまで、この「重層的構造」は日本人の文化全体に通底する特徴として見出される。そこでは、新旧どちらかが徹底的に否定され捨てられるのではなく、逆に新旧が全く融合して別のひとつになるのでもない。両者は相互に特殊なものとして区別されながらも、それぞれが日本人の生活における一契機として根強く生き続け、その時々に様々な形を取って現れてくるのだという。
恥の文化
 アメリカの文化人類学者のベネディクトは著書『菊と刀 ※(1)において、「西洋文化は神に対して背くことを罪と考える「罪の文化」である。これに対して、日本人の場合は共同体での調和を重んじ、自分の行為の善悪よりも、自分の行為が他人に対してどのように見られるかを気にし、恥をかかないように行為する「恥の文化」であると述べた。
タコツボ型とササラ型
 丸山真男(まるやままさお) ※(2)は著書『日本の思想』で社会と文化を二つの型、タコツボ型ササラ型に分けて考えることができると言う。ササラとは竹の先を細かく切っていくつも割ったもののことである。タコツボはそれぞれ孤立したタコツボが並列していることを言っている。
丸山はヨーロッパの学問はササラ型で、共通の長い文化的伝統が根にあって、個別科学が先端にたくさん分化していると言う。これに対して、日本の場合は、各々科学を掘り下げていくと共通の根にぶつからないで、各学科がみなタコツボになっていると指摘している。日本ではそれぞれがタコツボに篭っているので、各分野間、あるいは各社会科学相互の間においてもコミュニケーションがとれない状態であると指摘している。
タテ社会
(1) タテ社会・ヨコ社会
 社会人類学者の中根千枝(なかねちえ) ※(3)は『タテ社会の人間関係』において、日本社会の特徴を分析し「タテ社会」と呼んだ。 タテ社会とは場を共有する社会集団のことで、これに対してヨコ社会は場よりも資格を共有する社会集団である。
 ヨコ社会の典型としては、職業によって集団に分かれるインドのカースト制度があげられる。ヨコ社会でいえば、例えばパイロットとか、エンジニアといった具合に資格・職種によって集団が形成されるのである。これに対して日本のように場を重視する集団では、記者であるとか、パイロットである前に、A社、B社の者であるということになる。そこでは、強い「ウチ」意識が形成される。
(2) ヨコ・タテのつながり
 日本の社会では「会社」は、個人が一定の契約関係を結んでいる企業体として、自己にとって相対する客体として認識されるのではなくして、私の、また我々の会社として、主体化して認識される。労働者は他の会社の労働者とつながるよりも、自分の会社の経営者と強いつながりを持つのである。
(3) タテ社会の特徴
 タテ社会の成員はウチ意識が強く、定着を志向するので、外に出ることに大きな抵抗を持つ。集団が危機に遭遇した場合、弱い部分が切り取られたり、他に移ることになる。働くのは常に地位の低い成員であり、頂点かそれに近い成員は余程のことがない限り働かない。中央中心の価値観になりやすく、中央から遠い所に位置することは、マイナスを意味し、現場軽視になりやすい。
(4) 甘え
 土居健郎(どいたけお) ※(4)は著書『「甘え」の構造』において、精神医学の立場から「甘え」は日本人の精神構造を理解するキー概念であるとした。甘えは、子どもが親子関係において典型的に示すように、周りの人に好かれて依存したいという欲求であり、日本人特有の感情だとされた。「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」「恨む」はいずれも甘えられない心理から生まれる感情だとされている。
日本文化論
日本の重層性恥の文化(⇔罪の文化
日本社会論
タコツボ型(⇔ササラ型)、タテ社会(⇔ヨコ社会)、「ウチ」と「ソト」、甘え
注釈
(1) 『菊と刀』
『菊と刀』はアメリカの人類学者ベネディクト(1887~1948)が日米戦争当時、未知なる対戦国の日本人の行動様式を明らかにしようとして書かれたものである。1946年に出版された。
(3) 中根千枝
中根千枝(1926~)は社会人類学者。専門はインド、チベット、日本の社会組織の研究。
(4) 土居健郎
土居健郎(1920~2009)は精神医学者。日本人の精神構造を解き明かした『「甘え」の構造』の著者として有名となった。
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◇ 02 仏教の伝来と展開・発展

  • 仏教伝来から律令時代における仏教の受容の特色について理解しよう。
  • 平安時代における仏教の展開について理解しよう。
  • 平安時代末期から鎌倉時代における仏教の展開について理解しよう。

① 仏教の伝来

仏教の伝来と受容
 仏教は外来思想として移入され、独自の発展を遂げた。国家や貴族の保護を受け高度な学問や芸術を生み出す一方、民衆の心の拠り所ともなり、習俗と一体化して広く受け入れられた。
(1) 仏教の伝来
 仏教が日本に公に伝えられたのは、538年、百済の聖明王が天皇に釈迦の仏像一体や経典を献じた時とされている ※(1)。仏は災厄の回避、病気の平癒などの現世利益をもたらす「蕃神(あだしくにのかみ)(蕃(はん)=外国 の神)」として受け入れられた。蕃神という言い方からも分かるように、当初、神と区別されず、黄金の仏像や荘厳な仏具・経典は進んだ文化と結びついた新しい神の威力を示すものと考えられた。
《 仏教彫刻 》
(2) 仏教をめぐる対立
 仏教の受容をめぐっては崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏とが激しく対立した。物部氏は、蕃神を崇拝すると国神(くにつかみ)の怒りを買うことになるとして、反対したと言う。その後蘇我氏が物部氏を滅ぼすと、天皇は仏教興隆の詔を発し、貴族や諸氏族は競って寺院を建立することとなった。
(3) 仏教と神々
 仏教が受け入れられるとともに、それまで必ずしも明確でなかった従来の神々の個性が次第に明確化され、神を祭る固定化した神社が造られるようになっていった。やがて、死者に関する葬送儀礼は仏教が多く受け持つようになった。
聖徳太子
 聖徳太子は大陸文化を受け入れながら、改革に携わり、律令国家の体制の基礎を築いた。603年には「冠位十二階」を定め、翌年には「十七条憲法」を制定したとされる。また、大乗経典に注釈を施した『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)をあらわし、四天王寺や法隆寺を建立した ※(2)
《 大阪 上本町:四天王寺 》
(1) 十七条憲法
 太子が制定したとされる十七条憲法は、天皇中心の国家体制を確立するために、官人が守るべき規範や心構えを儒教・仏教・法家など外来思想をたくみに摂取して作られている。
十七条憲法(第一条・第二条・第十条)
  • 一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。

    一に曰く、和(やわらぎ)をもって貴しとし、忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ。(略...)

     第一条では、国家統治の原理として「」が強調されている。「人には党派心というものがあり、それ故に互いに争う。上の人も下の人も和をもって交わり、話し合いをすれば、事柄はおのずから道理にかない、何事も成し遂げられる」と述べられている。
  • 二曰、篤敬三寶。々々者佛法僧也。則四生之終歸、萬國之禁宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡。能敎従之。其不歸三寶、何以直枉。

    二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは、仏と法(のり)と僧(ほうし)なり。すなわち四生の終帰、万国の極宗(おおむね)なり。(略...)

     第二条では、「三宝(仏・法・僧)」を敬うことが述べられている。三宝は生きとし生けるものの最後の拠り所であり、あらゆる国々が尊ぶべき究極の規範とされる。仏教の普遍的道理であることが述べられている。
  • 十曰、絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。々各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、詎能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以、彼人雖瞋、還恐我失。我獨雖得、從衆同擧。

    十に曰く、こころのいかり(忿)を絶ち、おもてのいかり(瞋)を棄て、人の違うことを怒らざれ。(中略...)われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともに是凡夫(ただびと)のみ。

     第十条では、他人の意見が異なっているからといって、怒ってはならないと述べられている。意見が異なるとき、自分が正しいと人は考えがちである。しかし、自分が聖人なのではなく、他人が必ずしも愚者なのではない。ともに「凡夫 ※(3)に過ぎない。ここには自省に基づいた深い人間理解が見られる。
『聖徳太子 「十七条憲法」』(「日本の名著2」 中央公論新社)
(2) 仏教理解
 天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう) ※(4)に見られる「世間虚仮(せけんこけ)唯物是真(ゆいぶつぜしん)(世間は 虚仮=実体のないもの にして、ただ仏のみこれ真なり)」という言葉は太子の言葉だとされている。そこには世俗的生活・現象的世界の無常性と虚しさを認識するとともに仏の絶対性を信じる太子の信仰が表れている。また注釈したとされるもとの仏典からすると、太子は脱俗ではなく、世俗の生活の中で仏教を実践する在家仏教の立場に立ったと考えられる。
 太子の没後約20年、その子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)は流血の拡大を避けるため、敵に対する抗戦を放棄して、一族全員の自害を選んでいる。
(3) 太子信仰
 太子の実績については今日かなり疑いがもたれている。しかし、『日本書紀』の書かれた頃には、太子は常人を超えた聖人として扱われている。これはその後の太子信仰に受け継がれ、平安時代以降太子信仰はますます盛んとなった。親鸞が強い太子信仰を持っていたことは有名である。
注釈
(1) 仏教の伝来(538年)
仏教伝来は『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳(がんごうじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)』では538年とされ、『日本書紀』では552年とされている。538年説が有力とされてきたが、この説にも疑いがあるともされている。
聖徳太子(厩戸皇子) - [574~622]
 『日本書紀』によると、用明天皇の王子として生まれ、女帝推古天皇の摂政となり、死ぬまでその地位にあって内政外交に力を尽くした。蘇我氏と協調して天皇中心の国家体制の確立に努めた。数次にわたり遣隋使を送り、学生や学僧を留学させて大陸文化の導入に努めた。仏教を深く理解し、天皇に『勝鬘経』や『法華経』を講義し、『三経義疏』を著したと言われている。
(2) 聖徳太子
聖徳太子の呼び方、実績、著書については様々な疑問が提出されている。三経義疏は『法華経』『維摩経』『勝鬘経(しょうまんきょう)』の三つの大乗経典に関する注釈書の総称である。
(3) 凡夫
「凡夫」は仏教では「煩悩にとらわれた、迷いから抜け出せないでいる者」のことをいう。
(4) 天寿国繍帳
天寿国繍帳は聖徳太子の死を悼んでその妃が作らせたものと言われている。「天寿国」とは阿弥陀如来の住する西方極楽浄土のことで、太子は死後そこに往生したと信じられていた。
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◇ 02 仏教の伝来と展開・発展

  • 仏教伝来から律令時代における仏教の受容の特色について理解しよう。
  • 平安時代における仏教の展開について理解しよう。
  • 平安時代末期から鎌倉時代における仏教の展開について理解しよう。

② 鎮護国家と南都六宗

鎮護国家
 奈良時代になると仏教は国家による保護と支配を受け、学僧による経義研究が進展したが、一般には病気や災害を避け、幸福を祈る現世利益の宗教として信仰された。また、国家に対しては仏法によって国家の安泰をはかる鎮護国家の役割を果たすこととなった。聖武(しょうむ)天皇によって、諸国に国分寺・国分尼寺が建てられ、官僧が住して、金光明経(こんこうみょうきょう)などの護国・滅罪の経が読誦された。
《 奈良:東大寺大仏殿 》
聖武天皇「国分寺・国分尼寺の詔(741年)」により
一番目に建てられた「総国分寺」(752年大仏殿完成)
南都六宗(なんとろくしゅう)
 仏教が国教となり、平城京に数多くの寺院が建立されると、鎮護国家と経典の研究を主とする南都六宗が成立した。法相(ほっそう)・三論(さんろん)・倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)華厳(けごん)(りつ)の六宗である。六宗は今日の宗教的な宗派とは異なり、それぞれが特定の経典や理論を研究する学派であった。東大寺を中心に興隆した。数学を学び合うなどし、兼学の僧も多かった。
鑑真
 国家によって僧が保護されたため、僧となるものが増えた。当時僧・尼となるためには国家による許可(官許)が必要であった。許可を得た僧・尼を官僧(官度僧)と言い、得ていない僧・尼を私度僧(しどそう)と言う。朝廷は私度僧を禁止したが私度僧となるものが後を絶たなかった。そこで僧侶となる制度である授戒制度 ※(1)を確立するために中国(唐)の僧 鑑真 ※(2)を招聘し、東大寺に戒壇を設けた。
《 奈良:唐招提寺 》
鑑真が新田部親王の旧邸宅を宮廷から譲り受け寺とした。
六都六宗のひとつである律宗の総本山。
行基
 朝廷に許可なしに僧となる私度僧の他に山林修行や民間布教を行う者も多くあらわれた。とりわけ行基 ※(3)に率いられた私度僧集団は、畿内各地に布教と灌漑や交通の施設を作るなどの社会事業を展開し、東大の大仏造立にも加わった。
仏教の伝来
仏教の受容をめぐって蘇我氏と物部氏が対立
聖徳太子
大乗経典に注釈を施した『三経義疏』を著す
十七条憲法を制定
律令体制化の仏教
仏法による鎮護国家
経典の研究を主とする南都六宗の成立
鑑真 → 東大寺に戒壇を設けた
注釈
(1) 授戒制度
新たに尼僧になる者が戒律を遵守することを10人以上の尼僧の前で誓う儀式。仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んであったが、奈良時代に入ると自誓授戒を蔑ろにする者たちが幅を利かせたため、10人以上の尼僧の前で儀式を行う方式の授戒を制度化しようとした。
(2) 鑑真
中国唐代の有名な律宗の僧。5度の渡航の失敗の後、失明しながらも日本に到来した。東大寺に戒壇院を設立し、日本の授戒制度を確立した。さらに律宗の寺として唐招提寺を建立した。
(3) 行基(668~749)
人々から行基菩薩と呼ばれた。行基に従ったのが私度僧であったため当初弾圧されたが、後に認められ、大仏造立に加わった。大僧正となった。
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◇ 02 仏教の伝来と展開・発展

  • 仏教伝来から律令時代における仏教の受容の特色について理解しよう。
  • 平安時代における仏教の展開について理解しよう。
  • 平安時代末期から鎌倉時代における仏教の展開について理解しよう。

③ 仏教の展開

平安仏教の展開
 奈良時代も末期になると、東大寺をはじめとする大寺院の力が強まった。桓武(かんむ)天皇は仏教界の改革をはかって都を京都に移した。奈良仏教に代わる新しい仏教を伝えたのが、唐に渡って天台数学を学んだ最澄密教を学んだ空海である。彼らはともに鎮護国家を掲げながらも、山岳における修行と学問を重んじ、日本仏教に清新な気風を吹き込み、後に鎌倉仏教に受け継がれる素地を作った。
 平安時代には密教が盛んになった。密教は、加持祈祷(かじきとう)と呼ばれる呪法によって鎮護国家や現世利益を願うもので、荘園の発達とともに貴族社会に急速に広まった。
最澄と天台宗
(1) 大乗戒
 最澄は比叡山延暦寺(えんりゃくじ)を建て、天台宗 ※(1)を広めた。官僧の俗化を嘆いた最澄は延暦寺に新たに大乗仏教の戒壇を設け、そこで大乗菩薩戒 ※(2)のみによって受戒し、12年間、比叡山にこもって学問・修行を積む制度を目指した。そのために最澄は大乗戒壇の設立を許可するように朝廷に訴えて、『山家学生式(さんげがくしょうしき)』を著した。またこれに反対する南部の諸宗に対しては『顕戒論』を著すなどして、正当性を主張した。
(2) 一乗思想
 人間には大乗の菩薩のほかに、小乗の声聞(しょうもん = 仏の教えを聞いて悟る者)と縁覚(えんがく = 仏の教えを聞かなくても、自ら縁起の理を体得して悟る者)がおり、彼らの悟りはそれぞれ別である ※(3)。こうした考えに対して、すべての人が同じように仏の悟りを得られるというのが一乗思想である。最澄は、いっさいの成仏を説く『法華経』などに基づいて、生きとし生けるものはすべて仏になる素質を持っているとする「一切衆生悉有仏性(いさいしゅじょうしつうぶっしょう)」の考えから一乗を主張した。
《 滋賀県 大津市 比叡山:延暦寺 》
(3) 真俗一貫
 最澄が目指した大乗戒は従来の戒律に比べて緩く、在家向けのものであった。それを最澄は出家者に用いた。そこでは、出家者も在家者も同一の戒による「真俗一貫」の立場が表れている。このような現世との接近は、その後、煩悩と悟りは同じ(煩悩即涅槃)とする本覚思想のような現世主義的な独特の思想を生むこととなった。
 『法華経』の教えを中心に据え、四宗(円・戒・禅・密) ※(4)を融合した天台宗は、以後、日本の仏教の中心となり、多くの僧を集めるようになっていった ※(5)
空海と真言宗
(1) 真言
 空海は最澄と同時に唐に渡り、青龍寺(西安市)の恵果(746~806)に真言密教を学んで、2年後に帰国、高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を建てて真言宗を開いた。真言とはサンスクリット語のマントラを漢字に訳したもので、密教では仏の力を象徴する秘密の言葉を意味している。
《 和歌山県 高野山:金剛峰寺(根本大塔(左)・奥の院(右)) 》
kongoubuji
《 胎蔵界曼荼羅 》
《 金剛界曼荼羅 》
《 即身成仏と即身仏の違い 》
即身成仏 = この身のまま仏となること
即身仏 = 衆生救済のため活動した僧が死後も衆生救済を願いミイラとなること
(2) 密教
 空海は顕教と密教を区別した。顕教は衆生の求めに応じて分かりやすく説いた教えであるのに対して、密教は究極の仏そのものである法身仏(ほっしんぶつ)が、最奥の真実を直接語ったものである。空海は『秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)』において、心の発展を十段階に分けて、顕教から密教への進展に説いている。
(3) 曼荼羅
 空海は大日如来 ※(6)こそ究極の仏である法身仏であるとする。大日如来は宇宙の本体であり、この世界の万物・万象は大日如来のあらわれである。この大日如来を中心に諸仏を配置し、象徴的・感覚的に、現象的に世界の構造を把握できるようにしたものが曼荼羅である。空海は慈悲をあらわす胎蔵(たいぞう)界曼荼羅と知恵そのものをあらわす金剛(こんごう)界曼荼羅(2つを合わせて両界(両部)曼荼羅という)を伝えた。
(4) 即身成仏
 即身成仏とはこの身のままに仏となること、現世で仏の悟りを開くことをいう。空海によれば、三密身密・口密・意密)の行を修することによって、すなわち具体的には、手指に印契(いんげい)を結び、口に真言を唱え、意(心)が仏を念じて三昧の境地に至れば、即身成仏が実現する、という。この時、仏の慈悲や宇宙万物の生命力が人に加わり、他方では人が是を受け止めること(持)によって、人と仏の一体化が成り立つとされる。
(5) 神仏習合
 日本固有の神々への信仰と仏教が融合することを神仏習合という。神々は衆生と同じく神々の世界で苦しむ存在であり、それが祟りや災難を生む原因であるとされた。仏が神を救済することによって、これらの祟りや災難を取り除くと考えられた。
 こうした考えに基づいて、多くの神社に寺(神宮寺)が置かれ、神前で読経が奉納され、寺には鎮守の神が祭られた。平安時代には、仏が本地(本体)で、神は垂迹(すいじゃく)(本体が仮に姿を変えてあらわれたもの) ※(7)とする本地垂迹説が現れた。やがて鎌倉時代になると、神を本地とし、仏が垂迹であるとする反本地垂迹説が唱えられるようになった ※(8)
平安仏教の特色
山岳修行と学問を重視
最 澄
天台宗を創始し、比叡山に延暦寺を建立、大乗戒壇の設立
天台宗
一乗思想、一切衆生悉有仏性
空 海
高野山に金剛峰寺を建立、真言宗を創始
密 教
大日如来を信仰
加持祈祷)による即身成仏
注釈
(1) 天台宗
天台宗の教義は隋の智顗(ちぎ)(538~597)が確立したもので、『法華経』を中心とする理論と止観という実践を含んでいる。
(2) 大乗菩薩戒
鑑真が伝えた戒は部派仏教に基づいた「具足戒」であった。最澄はこれを大乗仏教の「梵網戒」によって受戒するよう改めたのである。
最澄 - [767~822]
 近江の国に生まれる。東大寺の戒壇で具足戒を受ける。その後比叡山に入って12年間にわたって修行を続けた。38歳の時天台の教えを究めるため、入唐し、天台山で天台数学・大乗戒・禅・密教を学んだ。帰国後、比叡山に延暦寺を建立して天台宗を開いた。すべての人が往生できるという一乗思想をめぐって法相宗の徳一と論争した。伝教大師と言われる。著書に『山家学生式』『顕戒論』がある。
(3) 大乗の菩薩・小乗の声聞と縁覚
この考えを三乗と言う。乗は乗り物の意味で、悟りに至る乗り物、悟りに至る道は三つあるというのが三乗の主張である。
(4) 四宗
四宗のうち、円は円教すなわち円満完全な教え、戒は戒律、禅は禅の行法、密は密教を意味する。
(5) 天台宗
天台宗では、最澄の弟子円仁などによって密教化が進められ、真言宗の「東密」に対いて「台密」と呼ばれた。
空海 - [774~835]
 讃岐の国に生まれる。大学の明経科に入るが、のち大学を去り、山林での修行に身を投じる。遣唐使に随行して入唐、青龍寺の恵果から密教を学び灌頂を受ける。帰国後真言宗を広める。高野山に金剛峰寺を建立し、京都に東寺を賜り、これを教王護国寺と名付けて鎮護国家の真言道場とした。綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開いて人々の教育にも力を尽くした。弘法大師と諡(おくりな=死者に送る名)される。著書に『三教指帰』『十住心論』『即身成仏義』などがある。
(6) 大日如来
大日如来の大日は、マハ・ヴァイロチャナ(摩訶毘盧遮那=マハー・ビルシャナ)の意訳で、マハは大ということ、ヴァイロチャナは太陽あるいは光明遍照の意味である。如来は仏という意味である。
(7) 垂迹
平安時代には天照大神は大日如来が仮の姿であらわされたもの(垂迹)とされ、八幡神は阿弥陀如来の垂迹とされた。
(8) 反本地垂迹説
反本地垂迹説は鎌倉時代の蒙古襲来をきっかけとした神国思想の出現と共にあらわれた。鎌倉末期にあらわれた伊勢神道は神主仏従の反本地垂迹説を唱えた。
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◇ 02 仏教の伝来と展開・発展

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④ 仏教の発展

浄土信仰と末法思考
 浄土とは、悟りを完成した仏の国土のことで、清浄な理想の世界のことである。こうした浄土を求め往生を願う信仰が浄土信仰である。諸仏によって浄土は各種あるが、日本では阿弥陀仏の国土である西方極楽浄土が最も多くの人の信仰の対象となったので、浄土教といえば、阿弥陀仏の浄土を求めることをいう。浄土教は飛鳥時代に日本に伝えられ、末法思想が現実味を帯びてきた平安時代中頃から、広く流行することとなった。
空也
 空也は民間仏教の指導者で、各地を遍歴・遊行して人々に阿弥陀仏信仰を説き、「阿弥陀聖(あみだひじり)」「市聖(いちのひじり)」と呼ばれた。  空也は「南無阿弥陀仏」と口に唱える口称念仏称名念仏)を広めた。また貧民や病人の世話、井戸掘などの社会事業を行い、荒野に捨てられた死骸を見れば、念仏を唱えながら火葬した。空也が始めたといわれる踊念仏(おどりねんぶつ)は、鉦(しょう)を鳴らし、鉢や瓢箪をたたき、踊りながら念仏と唱えて、死者の霊を鎮魂するもので、盆踊りの起源となった。
《 空也堂踊念仏図絵画像 》
源信 - 厭離穢土・欣求浄土 (おんりえど・ごんぐじょうど) -
 天台宗の僧侶である源信(恵心僧都 ※(1))は、985年に『往生要集(おうじょうようしゅう)』を著して、汚れたこの世を離れ(厭離穢土)、阿弥陀仏のいる西方浄土に生まれ変わること ※(2)を願い求める(欣求浄土)ことを説いた。『往生要集』に描かれた地獄と極楽の様子は人々に地獄への恐怖と極楽へのあこがれを抱かせた。源信が浄土に生まれるために示した方法は心に阿弥陀仏の姿を思い浮かべる観想念仏であった。
末法思想
 平安時代末期になると、貴族の支配が崩れ始め、相次ぐ戦乱や天災のなかで社会秩序は混乱し、人々は不安と世の無常を痛感するようになっていった。こうした社会不安を背景として、末法思想が広まり人々の絶望感はますます深くなった。社会不安と末法思想の広がりのなか、人々は死後に極楽浄土に往生できるという浄土信仰に惹かれるようになった。
 末法思想とは、釈迦の没後、仏陀の教えが正法、像法、末法というように次第に衰えてゆくという仏教の下降歴史観のことである。正法は仏滅後千年間で、仏の教え(教)と修行(行)と悟り(証)が備わった時代。像法は次の千年間で、教えと修行はあるが、悟りのない時代。末法はその後の一万年で、かろうじて教が説かれるのみで、修行も成就せず悟りに達する人もなくなる時代である。日本では1052(永承7)年から末法に入ったとされた ※(3)
鎌倉新仏教
 比叡山の修行者を中心として、仏教の新しいあり方を求める動きが起こり、そこから一般に鎌倉新仏教と呼ばれている新しい仏教が生まれた。
 理論的・体系的理解を重視した中国の仏教に学びながらも、きわめて単純な行(念仏)や信(信心)にひたすら打ち込むもので、日本独自の展開を見せている。この時代、無知な人や罪人にも救済の道が説かれて、仏教はあらゆる階層の人々に広まることとなった。
 一方旧仏教側でも改革運動が起こった。戒律と密教を修行し、病人の救済や橋の修理などの社会事業を行った真言戒律の叡尊(えいそん)や忍性、華厳宗を復興し、強化につとめた明恵(みょうえ)らが活躍した。
専修念仏(せんじゅねんぶつ)の展開
(1) 法然(ほうねん)
 法然は比叡山で学問・修行に励んでいたが、源信の『往生要集』と、そこに引用されていた唐の善導の教えに導かれて、末法の時代にふさわしい教えは浄土信仰であると確信した。比叡山を下りた法然は『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)を著し、浄土宗を開き、人々の教化に励んだ。法然は源信の重視した観想念仏や念仏以外の諸行による往生は困難であるとして、口称(口で念仏を唱えること)による称名念仏に専念する専修念仏を説いた。
《 『選択本願念仏集』による仏法の分類 》
(2) 聖道門と浄土門
 法然は、仏法を自力の修行や学問によってこの世で悟りを得ようとする聖道門阿弥陀仏の本願にすがって次の生で浄土に往生しようとする浄土門とに分けた。次に浄土門のうちに正行と雑行 ※(4)を分けて雑行を捨てて、正行のうちでも、読誦・観察・礼拝・讃歎(さんたん = 褒めたたえる事)供養を助業として、称名念仏のみを正定業(しょうじょうごう) ※(5)として、念仏さえ唱えれば、他の行はなくとも往生できるとしている。
(3) 専修念仏
 法然の説いた専修念仏は『無量寿経(むりょうじゅきょう)』に由来する。その経の中で法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ) ※(6)は「すべての衆生が、浄土に生まれたいと願って私の名号を唱え、往生するまでは成仏しない」(第18願)と誓願したという。このゆえに、戒律や学問につとめる難行ではなく、誰もができる易行である称名念仏こそ阿弥陀仏の慈悲から発する本願にかなった最も優れた行であるというのである。
選択本願念仏集
 「迷いの世を離れようと思えば、二種の優れた方法のなかで聖道門をそのままにして選んで浄土門に入れ。浄土門に入りたいと思えば雑行(自力修行)を捨てて選んで正行(読経・観仏・念仏・供養)に帰順せよ。正行を実践しようと思えば、助業を脇に置いて正業をひたすらにせよ。正業とは仏の御名を唱えることである」
法然 『選択本願念仏集』
絶対他力
(1) 親鸞(しんらん)
 法然の説いた浄土教の教えを受け継ぎ、新たな教えを生み出して、浄土真宗の開祖となったのが親鸞である。法然の説いた他力をさらに徹底した親鸞の立場は、絶対他力と呼ばれる。
(2) 悪人正機
 親鸞の弟子であった唯円は、『歎異抄(たんにしょう) ※(7)で「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という親鸞の言葉を伝えている。「善人でさえ往生を遂げるのであるから、善人にもまして悪人は往生を遂げるというのである。ここでいう善人とは自力作善の人、自力で学問や修行に努めて善をなすことができる人のことをいっている。しかし、阿弥陀が衆生を浄土に迎えようと願い誓った本来の意図 ※(8)は、どんなに自分の力で善をなそうと努めても成し得ないと知り、自力を捨てて阿弥陀仏の働きをたのむ他力の人(悪人)の救済である。それ故に自己の煩悩と至らなさを自覚して悩む悪人こそ往生できるのだとするのである(悪人正機説)。
(3) 自然法爾(じねんほうに)
 自然とは「自ずからしからしむ」ということで、法爾は「法のはたらきによって、そのようになる」という意味である。親鸞は法然の他力を徹底させて、絶対他力を説いた。親鸞によれば、我々が唱える念仏も我々の力によるのではなく、阿弥陀仏の慈悲の力によってなすに過ぎないという。阿弥陀仏への信心も念仏も、阿弥陀の慈悲の力によって、自ずからそのようになるに過ぎないという。このことが自然法爾である。
(4) 報恩感謝の念仏
 阿弥陀仏の大慈悲による救いに対して感謝して唱える念仏のこと。親鸞は、人は弥陀の本願を信じて念仏しようとしたときに救われているとして、信仰を重視した。自分の意志で念仏して救われるのではなく、阿弥陀仏を信じるときに、救いは確定する。念仏することは阿弥陀仏によって救われていることへの報恩感謝(阿弥陀の恩に報い、救われていることを感謝する)の念仏であった。
一遍(いっぺん)と時宗(じしゅう)
 一遍は法然の影響のもとに念仏を純化徹底して、時宗の開祖となった。一遍は一族の所領争いに巻き込まれ、すべてを捨てて遊行の生活に入り、踊念仏(踊躍念仏(ゆうやくねんぶつ))と「南無阿弥陀仏」の御札を配る賦算(ふさん)によって念仏を広めた。
 一遍は興願僧都への手紙に「念仏の行者は知恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも、貴賤高下の道理をも捨て、地獄を恐るる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また諸宗の悟りをも捨て、一切のことを捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願にはかない候(そうら)え」と言っている。
栄西
(1) 座禅
 はもともとサンスクリット語のディアーナに由来し、瞑想という意味である。インドに起源を持ち、禅が意味する瞑想体験は、仏教が成立した時から重要な意義が与えられていた。禅の教えはボーディダルマ(菩提達磨 南インド出身)が中国にやってきて伝えたとされる。日本には鎌倉時代に宗から禅宗 ※(9)が伝えられた。禅宗は、端坐し、呼吸を整え、精神を集中する瞑想法である坐禅という自力の修行によって仏の知を体得できるとする。
(2) 栄西
 栄西は天台宗の密教の僧として名をなす一方、二度入宋して臨済宗黄龍派の禅を学び、日本に広めた。当時日本では「達磨宗」と呼ばれる禅宗が危険視されて禁止され、栄西の禅も同様に禁止された。これに対する反論として、栄西は『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』を著した。この書の中で栄西は、禅宗は諸教の極理 ※(10)であり、日本国を護る秘法であると説いている。栄西は末法の世でも、戒律を守り心身を清浄にして坐禅につとめるならば悟りに至ることが出来ると説いた。栄西は坐禅公案 ※(11)による禅問答を通じて、悟りの境地は文字によっては表現できないということ(不立文字 ふりゅうもんじ)、真理の伝達は文字や言葉によらず、以心伝心によるということ(教外別伝 きょうがいべつでん)、日常生活において自在に働いている心そのものについて気付くこと(直指人心 じきしにんしん)、自己に本来そなわる仏性を見抜いて仏となること(見性成仏 けんしょうじょうぶつ)を説いた。
道元
 道元は比叡山で修行していたとき、この世界はそのまま永遠の仏の世界であり、地獄は地獄のまま、草木は草木のまま成仏しているのであり、それ故にそれを改める必要はないし、修行の必要はないという本覚思想に疑問を持った ※(12)。この疑問を抱えて道元は中国に渡り、禅の修行に励んだ。その結果得た結論が、坐禅修行は不可欠である。しかし、修行の結果仏になるというのでもない。坐禅修行していること、それが悟りであり、そこに仏の世界が開かれるということであった。帰国後、道元は初めて和文で本格的に禅を説いた『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) ※(13)を著し、曹洞宗(そうとうしゅう)を広めた。
(1) 只管打坐(しかんたざ)
 道元は焼香・礼拝・念仏・看経(かんきん 経典を読むこと)よりも、すべてを投げ打ち、心身を尽くしてひたすら坐禅する只管打坐を説いた。しかも、静坐黙想するだけが修行ではなく、洗面や清掃など寺院における一つひとつの行為が修行であるとした。
(2) 身心脱落
 道元は中国で天童山の如浄に出会い、そこで身心がそのまま抜け通ってしまったような「身心脱落」を経験する。しかし、道元にとってはこの悟りとしての経験がそこで終わりというのではなく、それこそが本当の修行の始まりであった。その心身の脱落の様子を道元は「仏道を習うということは、自己を習うということである。自己を習うということは、自己を忘れることである。自己を忘れるということは万法 ※(14)に実証されることである。万法に実証されるということは、自己の身心も他者の身心も、脱落し果てることである」と表現している。
(3) 修証一等
 修証一等とは、修(修行)と証(悟り)が一つのもの、すなわち修行が終わってはじめて悟りに達するのではなく、修行そのものが悟りなのだということである。
日蓮宗と法華経
(1) 日蓮
 日蓮は故郷(安房国(あわのくに))で天台宗を学んだ後、比叡山で天台数学を治めた。そこで『法華経』こそ仏陀の最高の教えを説いたものとの信念を得て、日蓮宗を開いた。彼は末法の世に『法華経』を広めることが、日本国と人々を救う唯ひとつの道であると考えた。他の鎌倉仏教の開祖たちが、主として個人の救済を説いたのに対して、『法華経』への信仰を中心に日本の国を救おうとしたところに、日蓮の特徴が見られる ※(15)
(2) 唱題
 日蓮は妙法蓮華経とは単なる経典の題目ではなく、法華経に説かれた宇宙の真理を意味しているとして、「南無妙法蓮華経」の七文字の題目を唱える唱題によって、仏の功徳を受けて、誰でも仏になれると説いた。
(3) 法華経の行者
 日蓮は『法華経』の迹門(しゃくもん)(前半部分)を理の立場、本門(後半部分)を事の立場として明確に区別し、特に本門を重視した。日蓮は法華経に説かれている久遠実成の仏、すなわち釈迦は仏として永遠に常在していることを重視し、末法の時代であっても、法華経に帰依するならば、国家は安泰となり、誰もが救われる仏国土が実現するとして、『立正安国論』を著した。日蓮は自身を法華経に登場する菩薩として自覚し、末法の世を『法華経の行者』として生きようとした。日蓮は他宗を排撃して「無念無間禅天魔真言亡国律国賊(無念=無間地獄に堕ちる教え、禅宗は天魔のしわざ、真言宗は亡国の邪法、律宗は国賊、という意味)(四箇格言)と主張した。仏教には人々を導く方法として、相手を穏やかに説得する摂受(しょうじゅ)と相手を強く責め立てて迷いを覚まさせる折伏(しゃくぶく)とがあるが、日蓮は折伏の方法をとった。そのために幕府や他宗からさまざまな迫害を受けたが、日蓮はかえって法華経の行者としての自覚を深めて、自己の信念を貫いていった ※(16)
旧仏教の改革
 平安末から鎌倉時代にかけて起こった仏教を鎌倉新仏教というのに対して、それ以前からあった天台宗や真言宗などの仏教を旧仏教といっている。顕密仏教と言われる天台や真言の大寺院は大きな荘園を有し、巨大な経済力をもとに政治的な影響も強かった。旧仏教、特に天台の中心となる思想が本覚思想である ※(17)。本覚思想では、本覚がすでに実現していると考えられ、現実がそのまま究極的な真理の実現であると考えられた。本覚思想は修行不要論となると批判されたが、他方ではありのままの自然を重視する中世日本の文化に適合し、幅広い影響を与えた。
注釈
空也 - [903~972]
 平安中期の僧であるが、詳しいことは不明である。はじめ私度僧として諸国を遊行し、「聖」として活躍した。のち比叡山で授戒し、天台僧となってからも庶民の間で活動した。
(1) 僧都(そうづ)
僧官のひとつ。僧綱のなかの第2位。僧正 > 僧都 > 律師。
(2) 往生
浄土に生まれ変わることを往生という。
源信 - [942~1017]
 天台宗の僧侶で恵心僧都とも呼ばれる。名利を嫌って横川(比叡山 延暦寺 横川中堂)に隠棲した。主著『往生要集』は浄土信仰を広めるのに大きな役割を果たした。
(3) 末法思想(正法・像法・末法)
仏滅後を正法、像法、末法と分ける時代区分は中国で初めて唱えられた。インドには末法という考えはなかった。インドでも正法・像法という考えはあったが、正法は正しい仏法、像法は正しい仏法に似たものという意味で、そこに時代や時代区分という意味はなかった。
叡尊 - [1201~1290]
 叡尊戒律復興に大きな役割を果たした。叡尊は当時の戒律衰退を憂えて、授戒の師がいないとき、仏前で自ら誓って授戒する自誓授戒を行って、東大寺を拠点に戒律復興運動を進めた。また、非人救済など積極的に社会事業を行った。
明恵 - [1173~1232]
 明恵は華厳宗の立場に立つが東大寺を中心とした既成の数学に飽き足らず、故郷の紀伊などで自らの創意工夫によって学問と修行をおさめ、京都の栂尾(とがお)の高山寺を拠点として、独自の教団を形成した。明恵は『摧邪輪(さいじゃりん)』を著して、法然の浄土宗の考えを、第一に悟りを求める菩提心を否定している。第二に自力修行の立場に立つ聖道門を否定していると批判した。また「あるべきようは」を主張し、「僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり」と世俗の人間は世俗の人間としてのあり方をまっとうするのが仏道にかなうことだと説いた。
法然 - [1133~1212]
 美作(岡山県)の押領使の子として生まれる。父が非業の死を遂げ、12歳で比叡山に入る。源信の『往生要集』を読んで、浄土教に入る。善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』を読み、専修念仏に開眼した。43歳の時比叡山を下り、東山の麓大谷の吉水を拠点として専修念仏を広める。76歳の時、念仏停止(ねんぶつちょうじ)の勅命が下り、土佐に流される。後許されて京都に戻り、亡くなった。著書『選択本願念仏集』。
(4) 雑行
雑行とは造像・起塔などの善行を行うことである。
(5) 正定業
正定業とは正しく定められた行いのこと。専修(選択)念仏は念仏を選ぶことであるが、法然のいう選択は、我々が選ぶということではなくて、阿弥陀仏が我々のために選択してくれたという意味である。
(6) 法蔵菩薩
法蔵菩薩は阿弥陀仏の神話的な前世の話に登場する菩薩で、阿弥陀仏が前世で沙門だったときの名前である。
親鸞 - [1173~1262]
 京都に下級貴族の子として生まれる。父の勧めに従って比叡山に上り、慈円のもとで出家した。天台宗の僧として修行する。29歳の時法然に出会い、弟子となった。35歳の時、念仏停止の処分に連座して、越後に流罪となる。その際僧籍を剥奪され、以後「僧にもあらず俗にもあらず」の道を進むことになった。流罪が解けた後、東国で布教を進める。63歳で帰京し、弟子や門徒に支えられて著述や教化を続けた。
(7) 歎異抄
『歎異抄』は親鸞の没後、師の教えが誤って伝えられているのを嘆いて、弟子の唯円自身が見聞したところを書いたもの。全体は18条からなっている。この書は、浄土真宗において長らく禁書とされていて、広く一般に読まれるようになったのは明治の末になってからである。
(8) 阿弥陀の衆生を救う願い
親鸞がここで阿弥陀仏の願いを誓ったこととは、先の法然の専修念仏にあった『無量寿経』の第18願を根拠としている。
一遍 - [1239~1289]
 伊予国の出身。10歳で出家した。日常の行住坐臥(人間の日常生活の基本的な行動。歩く、立止る、座る、横たわることの4つをいい、四威儀ともいう)の生活をつねに臨終のときと会得して念仏を唱える阿弥陀教に基づく信仰を説いた。
(9) 禅宗
「禅宗」が中国において成立したのは唐代の末期の頃である。
(10) 極理
究極の教えのことである。
(11) 公案
悟りに至る手段として師が門弟に与える問。
栄西 - [1141~1215]
 備中(岡山県)の国に生まれる。14歳の時、比叡山で授戒し、天代数学、密教を学ぶ。1187年二度目の入宋を果たし、天台山で臨済禅を学び、帰国後北九州に禅を広め、禅寺も建立した。朝廷から禅宗弘通(ぐつう:仏教が広く世に行われること)を停止され、『興禅護国論』を著して、禅宗弘通の意義を説いた。のち幕府の信任を得、鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を建立した。建仁寺は天台・密教・禅兼修の道場となった。
(12) 本覚思想への疑問
この疑問は「仏性を有する人間が、なぜ改めて発心(ほっしん:仏陀の悟りを得ようと決意すること)し悟りを求めるのか」という問いであった。
(13) 正法眼蔵
『正法眼蔵』は1231年から1253年にわたって書かれた全95巻の書。只管打坐・修証一等など道元の思想が語られている。
(14) 万法
万法とはわれわれを取り巻く環境世界のことである。
道元 - [1200~1253]
 早くして両親を失い、14歳で比叡山に入る。その後、建仁寺の栄西のもとで禅を学び、23歳の時明全とともに宋に渡った。曹洞宗(そうとうしゅう)の如浄に出会い、厳しい修行の後「身心脱落」を体験した。帰国後曹洞宗を開く。越前(福井県)に永平寺を開き、以後没するまで坐禅修行や弟子の育成にあたった。主著『正法眼蔵』。
日蓮 - [1222~1282]
 安房国(千葉県)に生まれる。地元の天台宗清澄寺で出家した後、10年間にわたり鎌倉、京都、奈良の寺で天台宗をはじめさまざまな宗派を学ぶ。清澄寺に帰り、「法華経の行者」として歩み出す。『立正安国論』を著し、幕府に提出するが、伊豆の流罪となる。赦免後、蒙古の使者が来日するに際して、諸宗や幕府を批判したので、佐渡に流される。赦免後身延山に隠棲する。以後この地から門信徒の教化や激励などを行った。
(15) 法華経の特徴
日蓮教は『法華経』への信仰を中心に日本の国を救おうとした。このことは、日蓮の「われ日本の柱とならん、われ日本の眼目とならん、われ日本の大船とならん」という言葉によく表れている。
(16) 日蓮の信念=日蓮は菩薩
仏教ではブッダは三つの身を持つとされる。法身(ほっしん)・報身(ほうじん)・応身(おうじん)である。法身は法(ダルマ=真理)を身体としている者のことで、報身は長い修行をし、その結果として獲得した仏身のこと、応身は大悲により衆生を救済するために、この現実の世界に肉体をもって現れた仏のこと。
(17) 本覚
本覚とは衆生の迷いの心の中にある悟りの原理で、同時に目標として設定される悟りのことでもある。本覚を自覚しないで迷いの状態にあるのが不覚で、不覚から本格に向かって進むことが始覚である。
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◇ 03 儒教の伝来と日本化

  • 朱子学の受容と発展について理解しよう。
  • 日本の陽明学の主張と発展について理解しよう。
  • 古学による儒教の日本的発展について理解しよう。

① 儒教・朱子学の伝来

儒教の伝来
 儒教が日本に伝来したのは4~5世紀頃とされている。『日本書紀』によると応神天皇の時、百済の王仁(わに)が『論語』と『千文字』を伝えたとされている。儒教が本格的に需要されるようになったのは6世紀になって五経博士 ※(1)が相次いで来日するようになってからである。「和」を説いた聖徳太子の十七条憲法には、仏教と共に儒教の影響が見られ、その後律令国家体制のもとでは、儒教の説く仁政の実現が目指され、政治を担う官人養成のために、儒教の経典を学ぶことが重視された。
 人々は仏教に内面の解決を求めて内典と呼び、儒教には社会生活での礼節や道徳の規範を求めて外典と呼んだ。
朱子学の伝来
 儒教は中世の終わりまで、仏教の周辺学問として一部に研究されるに留まった。中国では宋代(12世紀)に朱子によって新たな儒学としての朱子学が大成された。朱子学は日本へは鎌倉時代に伝来し、中世を通じて、主として京都五山 ※(2)や鎌倉五山 ※(3)の禅僧たちによって教養として学ばれた。
 儒学への関心が僧侶たちの間に高まると、仏教との違いも意識され、現実の人間関係を重視する儒教に惹かれるものも現れてきた。武将のなかにも、戦いのみならず為政者としての自覚を持つ者も現れ、儒教に対する関心が高まった。
 江戸時代になると、幕府は身分秩序を維持・強化するための思想として儒学を重んじ、そのために儒学は武士階級を中心に広まった。幕府が取り入れたのは朱子学であったが、時代が進むとともに朱子学に批判的な儒者も現れ、日本独自の展開を示した。江戸時代の儒学は、一般に朱子学陽明学古学の三つに分けられる。
注釈
(1) 五経博士
五経とは、儒学の重要な経典で易経、書経、詩経、礼記、春秋のこと。漢の武帝のとき、儒学の発達・普及のために五経博士がおかれた。
(2) 京都五山
京都五山は、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の五つの寺のこと。
(3) 鎌倉五山
鎌倉五山は建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺の五つの寺のこと。
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