ARTHUR-AQUAMARINE's MEMO

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◇ 08 市民社会の形成と近代思想の発展

  • 市民社会の成立を背景として生まれた社会運動の思想を理解しよう。
  • 個人を原理とする思想の発展について理解しよう。
  • 社会のゆきづまりの中でどのような思想が模索されたか理解しよう。

① 市民社会の形成と市民の誕生

大正デモクラシー
 大正時代を中心として、民主主義的機運が高まり、政治・思想・文学などの各方面で、従来の価値観が見直されるとともに、個性を尊重し、自由や平等を求める風潮が起こった。この風潮を大正デモクラシーと呼んでいる。
 旧制高校生によく読まれた『三太郎の日記』を著した阿部次郎は、古今東西にわたる文化、文学、美術などを幅広く摂取して人格の発展をはかる人格主義を唱えた。武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)有島武郎(ありしまたけお)志賀直哉らの白樺派 ※(1)の人々は、自己の個性を自由に伸展させることを説き、個人主義と人道主義に基づいた理想主義を主張した。
吉野作造(よしのさくぞう)
 吉野作造 ※(2)は論説「憲政の本義を説いて其の有終の美をなすの途を論ず」で民本主義を唱えた。民本主義はデモクラシーの訳語であるが、吉野の言葉によると、デモクラシーには二つの意味がある。第一には国家の主権は国民にあるという意味で、この意味ではデモクラシーは危険な学説となるので、これを取らない。これに対して、第二の意味では、国家体制が君主制であるか共和政であるかは問題ではなく、主権者は主権を運用するに際しては、政治の目的を一般民衆の幸福におき、政策の決定が一般民衆の意向によることを方針とする。この第二の意味のデモクラシーが民本主義である。これを実現するためには言論の自由の尊重と選挙権の拡張が必要だと主張した。
河上肇(かわかみはじめ)
 河上肇は絶対的非利己主義の実現を目指す人道主義者であったが、『貧乏物語』でいかに多くの人が貧乏しているか、なぜ多くの人が貧乏しているか、どうやって貧乏を根本から治すことができるかについて明快に説いた。河上は、貧乏を社会の大病ととらえ、貧乏を解決することが社会の基盤を固くし、国家の根本を養う所以であるとした。また貧乏の克服を富者の奢侈廃止に求めた。後にマルクス経済学に傾斜していった。
婦人運動
 女性は長い間、常に社会から遠ざけられ、家や男性に従属する存在であった。女性解放の運動は岸田俊子(1863~1901)や福田英子(1865~1927)らが自由民権運動期に女性の権利を訴えたことに始まる。その後、家や社会通念に縛られない生き方を主張する女性が現れた。与謝野晶子は1901年に歌集『みだれ髪』を出版し、奔放な情熱や官能を大胆に歌った。また日露戦争に際しては、戦争に従軍していた弟に対して「君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに おほみずからは出でまさね」と反戦を歌った。
 1911年(明治44年)、平塚らいてうは、女性だけで結成された青鞜社(せいとうしゃ)の雑誌『青鞜 ※(3)創刊の辞で、「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他によって生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」と宣言し、男性中心の社会を批判し、独立と個人としての女性の解放を訴えた。また市川房枝(1893~1981)らとともに新婦人協会を結成し、婦人参政権運動を進めた。
《 雑誌:青鞜 》
部落解放運動
 1922年(大正11年)に「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と訴える、西光万吉によって起草された水平社宣言が出され、全国水平社が創立された。
大正デモクラシー
市民による民主主義的政治運動
吉野作造
民本主義
河上肇
貧困問題、『貧乏物語
平塚らいてう
『青鞜』の発刊
注釈
(1) 白樺派
人道主義・理想主義を標榜し、文芸雑誌『白樺』を発刊した。学習院出身の上流階級の若い知識人が結成し、大正期文学の主流をなした。
(2) 吉野作造(1878~1933)
宮城県に生まれる。二高入学後にキリスト教に入信。東京帝国大学に進学後、牧師海老名禅正から決定的な影響を受ける。大学で政治学を担当するかたわら、雑誌『中央公論』に諸論文を発表した。民主主義の立場に立ち、大正デモクラシー運動に大きな影響を与えた。
河上肇 - [1879~1946]
 山口県に生まれる。京大で経済を教えるかたわら『貧乏物語』を新聞に掲載し、人道主義・改良主義の立場から貧乏の実体、原因、解決策を論じた。のちマルクス主義に進んだ。
平塚らいてう - [1886~1971]
 東京に生まれる。日本女子大を卒業後に青鞜社を結成し、日本の女性解放運動の中心的役割を果たした。
(3) 青鞜
青鞜は Blue Stocking の訳。創刊時の表紙は長沼千恵子が描き、巻頭には与謝野晶子の詩が載った。青鞜は1916年2月まで続き、52冊発行された。
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◇ 08 市民社会の形成と近代思想の発展

  • 市民社会の成立を背景として生まれた社会運動の思想を理解しよう。
  • 個人を原理とする思想の発展について理解しよう。
  • 社会のゆきづまりの中でどのような思想が模索されたか理解しよう。

② 近代日本哲学の成立と展開

日本における哲学の誕生
 日本の近代哲学は明治以降、西洋哲学の翻訳・紹介から始まった。「哲学」という翻訳語を作ったのは西周(にしあまね)である。彼はこのほかに「主観」「客観」などの、今日哲学用語として使われている語を翻訳してもいる。
 東洋の伝統を生かしながら、西洋哲学を学び、それとの対決の中で真の自己を求めて思索を続けたのが西田幾多郎である。西洋哲学の移入から出発した日本の哲学は、西田にいたって真に日本の哲学になったと言われる。
西田幾多郎(にしだきたろう)
(1) 純粋経験
 西田は『善の研究』において、純粋経験の立場から、真の自己とそれに呼応したより深くより強い実在の統一力(宇宙の根本とか神と言われている)との合一に人間の根本的あり方を求めた。純粋経験とは、われわれにとって最も直接的で、具体的な真の実存であり、そこからすべての物が自発自展する根源である。普通われわれは、わたしが何かを為すとき、為すわたし(主体)と為されるもの(客体)を分けて考える。これに対して、純粋経験とは、主客未分(主体と客体が分かれる以前)の直接的な経験のことである。西田はそれを、たとえば美しい音楽に心を奪われたり、画家が描くことに没頭しているときの経験である、と言っている。この立場から西田は「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」 ※(1)と述べた。
純粋経験
 純粋経験においてはいまだ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、またいまだ主観客観の対立もない。主観客観の対立はわれわれの思惟(しい:考える事)の要求より出でくるので、直接経験の事実ではない。直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである。見る主観もなければ見らるる客観もない。あたかもわれわれが美妙なる音楽に心を奪われ、物我相忘れ、天地ただ嚠喨(りゅうりょう:楽器・音声がさえてよく響くさま)たる一楽声のみなるがごとく、この刹那いわゆる真実在が現前している。
西田幾多郎 『善の研究』 日本の名著 中央公論社
(2) 絶対矛盾的自己同一
 後年、純粋経験は「場所の論理」と「歴史的実在の世界」としてとらえられた。西田は、歴史的世界を、個物(個人)が互いに他を限定しつつも独自のものとして自己同一を保つ一方、全体が自己限定して個物となり、個物と全体が緊張関係に立ちながらそれぞれ他のものに解消されないで自己同一を保つ世界であると考えた。こうした互いに矛盾するものが、矛盾するままでそこにおいて成り立つところが「場所」であり、そこに働いている論理が「絶対矛盾的自己同一」であった。
田辺元(たなべはじめ)
 田辺元 ※(2)は西田幾多郎によって京都大学に招聘され、西田の影響を強く受けながらも、西田の哲学を批判した。田辺は西田の哲学を絶対的なものを無媒介に立てていると批判し、類、種、個の絶対媒介 ※(3)の論理、種の論理を唱えた。田辺は、論理は類と種と個との媒介関係から切り離して理解することはできないとする。類と種と個は単に量において相対的に異なるのではなく、それぞれ他に還元されない独自の意義を持っているというものである。しかも、個は種との対立において成り立っており、類も種の否定を通してはじめて成り立ち、また同時に、それらのいずれも否定を介して相互に関係し合うという。
 この論理が実践において語られるとき、人類国家、国家、個人の関係として語られる。個人は国家から分立し、国家に対立しようとする自由意志を持っている。これに対して国家は、人類国家から分立し、国家の統制力を奪おうとする個人を抑圧し、否定しようとする。田辺は、国家と個人の対立を克服し、国家の盲目的で閉鎖的な統合を人類社会の絶対的開放性にもたらすことを目指した。このことは個人の否定を通して実現されるとする。しかし、個人の否定は、個人が人類の成員として生まれるという意味では肯定である。この否定即肯定という絶対否定的転回によって、個人が人類の成員となって形成する人類国家が実現されると説いた。
 戦後、国家を絶対化して個人の自由を国家に同化させてしまったという反省のもと、『懺悔道としての哲学』を刊行した。
和辻哲郎(わつじてつろう)
 西田幾多郎が仏教思想を基礎として、東洋に論理を追求したのに対して、和辻哲郎は、西田の開いた哲学・論理をもとに、日本的な人間存在の在り方を追求した。
(1) 間柄的存在
 『人間の学としての倫理学』において、和辻は人間を「間柄的存在」としてとらえた。間柄とは個人としての「人(ひと)」と全体としての「社会(世間)」との弁証法的統一のことである。この考えによると、社会は単に人間が集まったものではなくて、個人が人間関係の連関において存在する場のことである。人間は社会における存在であり、社会から離れて人間を考えることは意味をなさない。しかし、社会は個人を超えて超然と存在するかと言えば、そうではなく、個人のいないところには社会もなくなる。このように個人と社会は相互に関係しあい、相互に作用しながら存在するというのである。
 このことを和辻は、個人と共同体(民族、国家、村落など)の関係としてとらえて、個人の行為は単に個人的で主観的な行為であるだけでなく、個人を超えた共同体という根底を持っている。また共同体の行為は必ず個人の行為として表現される、と言っている。そして、倫理の根本を個人が自己を自覚して共同体から背反し、また自己の根源である共同体へと帰る動的な停滞のない運動においた。この運動が停滞する時、一方では共同体への無自覚な埋没が出現し、他方では共同体からの背反にのみ意義を見いだす個人が出現する。
 こうして和辻は、共同体(人間関係)を重視してきた人間の日本的な存在の仕方に哲学的な表現を与えたのである。
倫理とは何か
 倫理問題の場所は孤立的個人の意識にではなくしてまさに人と人との間柄である。だから倫理学は人間の学なのである。人と人との間柄の問題としてでなくては行為の善悪も責任も徳も真に解くことができない。……だから倫理は人間の共同的存在をそれとしてあらしめるところの秩序、道にほかならぬのである。言いかえれば、倫理とは社会存在の理法である。
和辻哲郎 『倫理学』
九鬼周造(くきしゅうぞう)
 九鬼周造 ※(4)は、その著『いきの構造』において、フッサールの現象学やハイデガーの解釈学に基づいて、江戸時代に発達した美意識である「いき」を分析した。
 「いき」は「媚態」、「意気(意気地)」、「諦め」の三つの契機からなる。「意気」は武士道に発する理想を求める生き方、「諦め」は仏教の現実に対する諦めの態度に通じる。「いき」は武士道と仏教を含んだ極めて日本的な生き方を表わすものと考えられた。異性とつかず離れずある「媚態」が、運命の限界を見定めて、現実に執着することなく、それでいて、理想を求める自由なあり方である。
三木清(みききよし)
 三木清 ※(5)は客観的なものと主観的なもの、合理的なものと非合理的なもの、知的なものと感情的なものの結合を目指した。この問題を三木はロゴスとパトスの弁証法的統一の問題として定式化した。すなわち、すべての歴史的なものについてロゴス的要素とパトス的要素を分析し、その弁証法的統一を試みた。『構想力の論理』では、カントの想像力の教えに基づいて、行為の哲学を目指した。三木は行為を広い意味での制作としてとらえ、制作の理論を構想した。
西田幾多郎
純粋経験主客未分『善の研究』
田辺元
西田哲学を批判、種の論理
和辻哲郎
間柄的存在、人間構造の二重性、人間の学としての倫理学
九鬼周造
いき」の構造
注釈
(1) 個人あって経験あるにあらず、
経験あって個人あるのである
この言葉に感動して、西田哲学へ傾倒した劇作家・評論家に倉田百三(1891~1943)がいる。彼は論文集『愛と認識の出発』の中で、この言葉に感動した様子を描いている。
西田幾多郎 - [1870~1945]
 石川県に生まれる。第四高等学校に入学したが教師排斥運動を起こし、卒業を間近に控えながら退学した。のち東京帝国大学哲学科の選科生となった。明治29年、母校の第四高等学校の講師となり、山口高校、再び第四高等学校、学習院大学などで教鞭をとり、大正2年京都帝国大学の教授となった。10年間の参禅を通して哲学的思索を深め、『禅の研究』を著した。その後も思索はとどまるところを知らず、「純粋経験」から「絶対意思」へすすみ、さらに「場所の論理」、「弁証法的一般者」、「行為的直観」へと発展した。
(2) 田辺元(1885~1962)
東京に生まれる。東京帝国大学では、初め数学を学び、後に哲学に転じる。卒業後、はじめ科学哲学を研究していたが、京都大学に移ってから認識論、現象学、弁証法などの研究に移った。「西田先生の教えを仰ぐ」において、西田哲学への批判を開始し、自身の立場を種の論理として展開した。最晩年には「死の哲学」を展開した。
(3) 絶対媒介
絶対媒介とはあるものが成立するときに、必ず他のものを媒介としなければならないことをいう。
和辻哲郎 - [1889~1960]
 姫路市に生まれる。1906年(明治9年)、第一高等学校に首席で入学、哲学を志望した。文学文芸にも強い関心を持ち、雑誌に戯曲、小説、文芸評論などを発表した。のち夏目漱石に出会い、大きな影響を受けた。大正14年に西田幾多郎や波多野精一に招かれて京都帝国大学の講師となった。京都では特に西田幾多郎から大きな影響を受けた。3年間の予定でヨーロッパに留学し、この時の経験を基に『風土』を著した。太平洋戦争時には、ナショナリズムの立場に立った国家論を展開し、戦後は自らの国家論に修正を加えるに至ったが、戦争責任者として批判を受けた。1960年(昭和35年)、心筋梗塞で死去した。著書に『倫理学』『日本精神史研究』などがある。
(4) 九鬼周造(1888~1941)
東京に生まれる。東京帝国大学を卒業後、ヨーロッパに留学。帰国後、日本に「生の哲学」「現象学」「実在哲学」などを紹介した。著書に『「いき」の構造』『偶然性の問題』などがある。
(5) 三木清(1897~1945)
兵庫県に生まれる。京都帝国大学を卒業。ドイツに留学し、ハイデガーに師事する。帰国後、ハイデガーの解釈学を応用した『パスカルに於ける人間の研究』を発表した。マルクス主義にも接近し、マルクス主義を人間学の立場からとえらようとした。のち治安維持法違反で処分され、終戦の一か月後に刑務所内で死亡した。
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◇ 08 市民社会の形成と近代思想の発展

  • 市民社会の成立を背景として生まれた社会運動の思想を理解しよう。
  • 個人を原理とする思想の発展について理解しよう。
  • 社会のゆきづまりの中でどのような思想が模索されたか理解しよう。

③ 民俗の思想

民俗学の誕生
 19世紀前半のヨーロッパでは、民間伝承、民話、民謡、神話、迷信、さらには遺跡などへの関心が高まった。民俗学という言葉は、イギリスのトムスが用いたフォークロアという言葉を参考につくられた。西洋民俗学は自民族と異なる民族を比較研究する学問であったが、民俗学は日本民族を対象とする反省の学ととらえられた。また民俗学は、従来の歴史学が「英雄の心事」に重点をおくのに対して、常民の歴史を研究対象とするものとされた。民俗学は柳田国男南方熊楠(みなみかたくまぐす)を軸として誕生した。柳田は1913年に発表の場として『郷土研究』を創刊している。
 柳田や折口信夫は自らの学問を、本居宣長や平田篤胤の学問に連なるものとして新国学と名付けている。
柳田国男(やなぎたくにお)(1875~1962)
 柳田国男が民俗学を興した背景には、日本の近代化のもとで、人々の不孝が増してゆくという視点があった。近代化のもとでの不幸について柳田は次のように述べている。昔の貧乏は自ら招いた貧乏か、災害による不幸であった。しかし、現代の不幸はまじめに働いても少しずつ足りないという不幸である。これは資本主義経済時代の特色で、貧乏を自覚しても防ぐすべがない。柳田は、こうした歴史の陰に追いやられた人々の暮らしを直視し、そこから文明社会を照射しようとした。
 柳田は民俗学を経世済民の学(経世済民=世を治め、民を救う)であると説いている。彼の研究領域は、農・山・漁村生活、民間信仰、伝説、昔話、社会政策、民俗学の理論体系化など多岐にわたった。晩年は、沖縄を中心とする南島文化の研究に取り組んだ。
(1) 常民
 常民とは、民間伝承を保持している階層で、村落を構成する無名の一般の人々を指している。柳田は常民を知識人と対立さえて用い、常民の年中行事や生活の中にも思想や精神が現れていると考えた。これは旧来の歴史研究が中央の権力者の伝記に偏っていることに対する批判であり、そこから常民の生活を研究対象とする民俗学が生まれた。
(2) 民間伝承
 民間伝承は民俗学の研究対象となるもので、常民の間で文字を媒介にすることなしに、日常的・集団的・類型的(型に嵌っていて個性や特色がみられないさま)に受け継がれてきた言葉や行為・観念を指している。具体的には、日常生活の中で無意識のうちに繰り返されてきた生活様式や生活技術、さらにこれらを支える信仰や伝説等の思考様式をも含むものである。柳田は当初、自身の研究を郷土研究民間伝承論と呼んでいた。
折口信夫(おりくちしのぶ)(1887~1953)
 折口信夫は、柳田国男の民俗学を受け継ぎながら、独自の思想を立てた。折口は古代の日本人が信仰していた神は、海の方にあると考えられていた想像上の異郷であり、生命や豊穣の源泉地である常世国 ※(1)(とこよのこく)から定期的に村落を訪れ、人々に幸福を与えて帰っていく「客人(まれびと)」であると説いた。また、神の来臨の実演が祭祀儀礼であり、和歌や物語は神にかかわって発せられた言葉から発生したとした。「まれびと」は「まれに来る人」のことであり、「まれびと」来訪神儀礼は沖縄をはじめ日本海側に点在しているという。また、さらにそうした神を背負って村々を巡り歩き、人々に祝福を与える芸能者も、「まれびと」と呼ばれたという。
伊波普猷(いはふゆう)(1876~1947)
 沖縄出身の伊波普猷は、東京帝国大学で言語学を学んだ後、帰郷し県立図書館長として勤務しながら琉球の古典『おもしろそうし』を丹念に研究、その成果を著書『古琉球』にまとめた。古琉球とは、1609年の薩摩藩の琉球侵攻以前に、沖縄が統一国家として独自の繁栄と文化を享受していた時期のことである。伊波は著書で、沖縄と日本は同じ祖先をもち、沖縄の文化は古い形を残していると主張した。
南方熊楠(みなかたくまぐす)(1889~1941)
 和歌山の裕福な町家に生まれた南方熊楠 ※(2)は、小学校の頃に百科全書・本草学・地誌への関心を抱き、中学校卒業の年、日本菌類7000点の採集を志した。20歳の時から海外で過ごし、海外の雑誌に盛んに寄稿した。1906年の勅令「神社寺院仏道合併跡地譲与ニ関スル件」と神社合祀令 ※(3)によって、神社を統合する神社合祀が行われ、原則として一町村一神社に統合し、各地の小さな神社が潰されることとなった。熊楠は、人々が大切にしてきた神社やその周辺の森林が破壊され、地域民俗文化の衰退と自然生態系の破壊がもたらされると猛烈に反対した。
柳宗悦(やなぎむねよし)(1889~1961)
 柳宗悦は日常的に民衆が用いる雑器の中に文化の個性としての美を発見し、民芸運動を起こした。
 民芸とは民衆的工芸の意味である。柳は民芸の特質として「実用品であること」と「普通品であること」を上げている。風流を狙う趣味の品とは区別される。無名の職人が鑑賞のためではなく、実際に用いるために作った日常の器物である。民芸品は商業主義の進展により機械工場に大量に製造される製品に日常使われる品としての位置を替わられた。
柳田国男
民俗学の創始、常民
折口信夫
まれびと信仰
伊波普猷
沖縄学、『おもしろそうし』『古琉球』
柳宗悦
民芸運動
注釈
海上の道
 結局は私の謂ふ海上の道、潮がどのやうに岐(わか)れ走り、風がどの方角へ强く吹くかを、もつと確實(かくじつ)に突き留めてからで無いと斷定し難いが、稻を最初からの大切な携帶品と見る限りに於ては、南から北へ、小さな低い平たい島から、大きな高い島の方へ進み近よつたといふ方が少しは考へやすい。ともかくも四百近くもある日本の島々が、一度に人を住まわせたとは誰も思つて居らず、其うちの特に大きな大切な島へといふのも、地圖(ちず)が出來てから後の話である。
柳田国男 『海上の道』
柳田国男 - [1875~1962]
 兵庫県出身。故郷での飢餓体験から東京帝国大学では農政学を専攻し、卒業後農商務省に入り農政に携わった。30歳の頃、農政学的な農民研究から民俗学的な農民生活の研究へとすすんだ。柳田ははじめ民俗学と民族学を一つながりのものと考えていたが、やがて民俗学を日本のみに研究対象を限定するものと考えるようになった。従来の歴史学が「英雄の心事」に重点をおくのに対して、民俗学は常民の歴史を研究対象とするとした。柳田の研究領域は、農・山・漁村生活、民間信仰、伝説、昔話、社会政策、民俗学の理論体系化など多岐に渡った。晩年は、沖縄を中心とする南島文化の研究に取り組んだ。著書には『遠野物語』『山の人生』『海上の道』『先祖の話』などがある。
(1) 常世国
垂仁紀(すいにんき)には、「是の常世の国は、神仙(ひじり)の秘区(かくれたるくに)、俗(ただびと)の臻(いた)らむ所に非ず」とあり、また皇極紀(こうきょくき)には、「常世の神を祭らば、貧しき人は富を致し、老いたる人は還りて少(わか)ゆ」という常世国の神にまつわる記述がある。こうした常世信仰は、さまざまな農耕祭儀や宮廷大嘗祭(だいじょうさい)とも結びつくと考えられている。
折口信夫 - [1887~1953]
 筆名は釈迢空(しゃくちょうくう)。大阪府の出身。1922年に國學院大学教授となり、1928年には慶応大学文学部教授となる。1913年に柳田国男主催の『郷土研究』に投稿し、知遇を得て以来、その日本民俗学の方法論に触発された。国文学・民俗学・芸能史等、幅広い領域で独創的な論考を展開し、とくに日本古代信仰の研究や民族芸能の発掘に多大な貢献を果たした。著書に『古代研究』や歌集『古代感愛集』『近代悲傷集』、小説『死者の書』等がある。
(2) 南方熊楠(1889~1941)
和歌山県に生まれる。大学予備門(第一高等学校の前身)を中退後、欧米に渡り、大英博物館東洋調査部員として東洋文献目録を整理した。帰国後、和歌山近辺で変形菌の研究に従事しながら、民俗学などに関する著作を残した。
(3) 神社合祀令
合祀令によって打ち出された政策は、特別の事情や由緒あるものを除いて、神社を一町村一社に統合し、神社には必ず神職をおき、村社には一年120円以上、無格社で60円以上の常収があるよう方法を立てさせ、祭典を全うし、崇敬の実をあげさせようとするものである。
柳宗悦 - [1889~1961]
 東京に生まれる。学習院高等科時代に雑誌『白樺』創刊に参加。学習院を卒業後、東京帝国大学哲学科に進み、心理学を専攻する。卒業後、朝鮮陶磁器の美しさに魅了され、1916年朝鮮に旅行、その後たびたび訪問する。木喰仏の調査に没頭するとともに、日本の生活雑器に無名の工人の生み出す美を見出し、「民芸」という言葉を創出した。1931年には雑誌『工芸』を発刊、1936年東京駒場に日本民芸館を設立し、その館長となる。晩年には仏教の他力本願の思想に基づいた仏教美学を提唱した。
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◇ 08 市民社会の形成と近代思想の発展

  • 市民社会の成立を背景として生まれた社会運動の思想を理解しよう。
  • 個人を原理とする思想の発展について理解しよう。
  • 社会のゆきづまりの中でどのような思想が模索されたか理解しよう。

④ 近代のゆきづまりと超国家主義

宮沢賢治(1896~1933)
 18歳の時『法華経』を読んで感動し、法華経に基づいた生き方、菩薩行を実践しようと考えるようになった。高等農林学校を卒業後、農学校の教職に就き、やがて職を辞して農耕自炊の生活に入り、羅須地人協会を設立した。ここで賢治は農村青年に農民芸術、稲作法、科学などを講義した。また付近の村に肥料設計所を設け、農村を巡回して稲作指導、肥料設計を行った。賢治は詩や童話などを通じて、どんなに小さな生命でも差別されず、宇宙の働きと一体化して自らの生命を全うすることのできる理想世界を描いた。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論網要』)という言葉には、菩薩行を求めた賢治の願いが込められている。
《 宮沢賢治 》
小林秀雄(1902~1983)
 小林秀雄は日本近代批判の確立者である。小林はボードレールやランボーの影響を受けて、『様々なる意匠』で文壇に登場した。小林の批評の新しさのひとつは批評を方法的自覚のもとに行った点にある。「批評とは懐疑的に己の夢を語ることではないか」とは小林の言葉だが、彼は批評を、他人を批評することとは考えなかった。他人を語ることによって、自己を語るのが批評であると考えた。その点において、小林の批評は素材に寄りかからず、自立したものであり、批評を自立した創造的行為として確立した。
 また、小林は『様々なる意匠』以来、既成の趣向や概念を批評の対象に当てはめる方法ではなくして、既成の理論を用いずに直接に対象と向き合い、様々な意匠(趣向)を排除しても動かないものこそが確かなものであるとして、そこから批評を展開した。晩年には本居宣長を扱った代表作『本居宣長』を著した。
《 小林秀雄 》
超国家主義
 昭和初期には、超国家主義と呼ばれる極端な国家主義が現れた。
 北一輝(1883~1937)は、『日本改造法案大綱』において、幕末維新以来の内憂外患の時代だと認識を示す。その時代認識の上に立って、国民は冷静に物事の根本を考察して、挙国一致で国論を定めて大同団結し、天皇の大権による発動をもって国家改造をはかるべきだとした。彼は天皇と国民の直結のもと、普通選挙の実施、私有財産と土地所有を制限することなどによって自由と平等を実現すべきだと説いた。また、対外的には自衛のために戦争のみではなく、不当に抑圧されている外国や民族を解放するための戦争及び人類共存を妨げるような大領土の独占に対する戦争を認めた。欧米列強に対して対外戦争を起こして、植民地支配の均分化をはかるべきだと説いた。この主張は青年将校による軍事クーデターである二・二六事件(1936年)の思想的支柱となった。
国体論の台頭
 国体(天皇を中心とした秩序・政体)は、国民の思想を規制するのに猛威をふるった。満州事変(1931年)をきっかけに軍国主義が大勢を占め、自由主義も取締を受けるようになった。国体の観念は、満州事変以後、戦時体制化が進むと共に時代のキーワードとなった。民主主義的風潮では定説とされていた美濃部達吉(みのべたつきち)(1873~1948)の天皇機関説 ※(1)は、日本の国体を破壊するものとして非難されることとなった。また津田左右吉(つだそうきち)(1873~1961)の『神代史の新しい研究』も、国体を破壊するものであり、天皇に対する不敬罪に当たるとして発禁処分となった。
宮沢賢治
農民芸術
小林秀雄
日本近代批評の確立者、『様々なる意匠』
北一輝
国家改造、超国家主義
美濃部達吉
天皇機関説
注釈
(1) 天皇機関説
統治権は法人としての国家にあり、天皇はその最高機関として統治権を行使するという学説。天皇機関説は国体に反するとして攻撃され、著書は発売禁止となった。
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◇ 08 市民社会の形成と近代思想の発展

  • 市民社会の成立を背景として生まれた社会運動の思想を理解しよう。
  • 個人を原理とする思想の発展について理解しよう。
  • 社会のゆきづまりの中でどのような思想が模索されたか理解しよう。

⑤ 戦後の思想

戦後の改革と価値観の模索
 第二次世界大戦の敗戦によって、戦争の遂行を支えていた権威や価値観が崩壊し、人々は拠り所を失った状態で、新たな価値観や秩序を模索した。戦後、戦争への反省から、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を基本原理とする日本国憲法が制定された。
 坂口安吾 ※(1)は戦後の拠り所を失った人々を見て、『堕落論』を著した。戦争の悲惨と運命によっても人間は変わらない。人間は人間に戻っただけである。人間は生き、堕落する。人間と同じく日本も堕落する。堕ちる道を堕ちきることによって、かえって自分自身を発見し、救わねばならないと、自己に根ざした道徳の回復を訴えた。
《 坂口安吾 》
丸山真男(まるやままさお)(1914~1996)
 丸山真男は第二次世界大戦での敗戦を「第二の開国」ととらえ、改めて真の近代化を目指すべきであるとし、自由な主体的意識に目覚めた個の確立が必要だと主張した。
 丸山は「超国家主義の論理と心理」(1946年)で、自由な主体的意識を持たず、各人が行動の制約を自らの良心の内に持たずに上の者に従ったことが誤った行動を取らせたと、戦前の日本と日本人が陥っていた精神的状況を構造的に明らかにした。そして、日本の思想史を分析し、儒学の荻生徂徠(おぎゅうそらい)の聖人の考え(「誰でも本然の性を発揮すれば、聖人になれる」)に主体的で自由な人格と、国学の本居宣長のもののあはれ論に社会秩序からも政治からも道徳からも自立した文学・芸術という近代意識の萌芽を見いだした。また近代的主体の確立をはばむ前近代的傾向である意識の古層を倫理意識、歴史意識、政治意識の三つの意識から検討し、その克服を説いた。
超国家主義の論理と心理
 こうした自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従って究極的価値に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでも言うべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲していくことによって全体のバランスが維持されている体系である。これこそ近代日本が封建社会から受け継いだ最も大きな「遺産」の一つということが出来よう。
丸山真男 『現代政治の思想と行動』
吉本隆明(よしもとたかあき)(1924~2012)
 吉本隆明は敗戦の経験をふまえ、丸山真男の主張する近代的な主体の確立も戦後流行した共産主義もともに否定し、「自立」の思想的根拠を、大衆の生活様式に置いた。さらに、吉本は『共同幻想論』で、人間関係を個人と個人の関係としての自己幻想、個人と他者との関係としての対幻想、個人と他者との公的な関係としての共同幻想の三つに分類し、国家は共同の幻想であると説いた。そして、自己幻想は愛国心やナショナリズムという形で共同幻想に浸食されており、自己幻想の共同幻想からの自立を課題とした。
共同幻想
 ここで共同幻想というのは、おおざっぱにいえば個体としての人間の心的な世界がつくりだした以外のすべての観念世界を意味している。いいかえれば人間が個体としてではなく、なんらかの共同性としてこの世界と関係する観念の在り方のことを指している。(中略)
 共同幻想も人間がこの世界で取りうる態度がつくりだした観念の形態である。〈種族の父〉(Stamm-Vater)も〈種族の母〉(Stamm-Mutter)も〈トーテム〉もたんなる〈習俗〉や〈神話〉も、〈宗教〉や〈法〉や〈国家〉とおなじように共同幻想のある現われ方であるということができよう。人間はしばしば人間の存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている。そして共同幻想のうち男性または女性としての人間が生み出す幻想をここではとくに対幻想構造をもっている。そして共同幻想のうち男性または女性としての人間が生み出す幻想をここではとくに対幻想とよぶことにした。いずれにしても私はここで共同幻想がとりうるさまざまな態様と関連をあきらかにしたいとかんがえた。
吉本隆明 『共同幻想論』
坂口安吾
『堕落論』、自己に根ざした道徳の回復
丸山真男
自由な主体的意識
吉本隆明
批評の原理としての大衆
注釈
(1) 坂口安吾(1906~1955)
新潟県に生まれる。本名:炳五(へいご)。東洋大学を卒業後、フランス文学を学び始め、小説、評論、翻訳を行う。のちには、歴史小説、推理小説、エッセイなど幅広く手がける。戦後『堕落論』を著し、衝撃を与える。太宰治らとともに「無頼派」と呼ばれた。
丸山真男 - [1914~1996]
 大阪に生まれる。東京大学法学部教授。1946年雑誌『世界』に論文「超国家主義の論理と心理」を発表、日本の言論界に大きな衝撃を与える。1956年には、戦争中のファシズム体制への学問的抵抗をバネにした研究成果を『日本政治思想研究』として刊行した。丸山は福沢諭吉をもっとも尊敬し、もっとも親近感をもって論じている。また福沢研究を通して、自由のあり方や日本の権力偏重などを分析した。戦後アカデミズムの枠を越えて、オピニオンリーダーとして発言し、大きな影響を与えた。著書として『日本政治思想研究』『日本の思想』『「文明論の概略」をよむ』などがある。
吉本隆明 - [1924~2012]
 詩人、評論家。東京に生まれる。東京工業大学を卒業後、労働組合運動に関わる。1958年、戦前の共産主義者たちの転向を論じた『転向論』を発表。1960年安保直後に「自立の思想」を標榜した雑誌『試行』を創刊。自立の立場から、丸山真男を代表する知識人の思想を批判した。その後テレビや漫画・アニメ、都市論などを論じ、サブカルチャーを評価した。その他、消費社会、宗教、言語表現、大衆文化など多方面にわたって思想、評論を展開した。著書として『共同幻想論』『心的現象論』『言語にとって美とは何か』などがある。
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