ARTHUR-AQUAMARINE's MEMO

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◇ 02 実存主義

  • 実存主義成立の背景と、それまでの西洋思想との違いを理解しよう。
  • 実存主義を説いた二人の先駆者の思想の特質と、その違いを理解しよう。
  • 20世紀の実存主義の展開や、社会との関わりについて理解しよう。

① 実存主義とは何か

実存主義成立の背景
(1) 人間疎外
 ヨーロッパにおける近代市民社会の成立と資本主義の発達は、一方で深刻な人間疎外の状況をもたらした。機械文明や管理社会の発達の中で、人々は個性や人間性を失い、画一化・商品化の度を強め、孤立感を深めていった。
(2) 実存主義の成立
 一方、農村を中心とする共同社会が崩れる中で、伝統的なキリスト教的価値観も揺らいでいたが、19世紀には人間の理性や科学技術、進歩に対する信仰がその代わりになるかと思われた。しかし、20世紀に入って人類が経験した2度の世界大戦による大量破壊・大量殺戮や社会的混乱は、人間の理性への信頼、人類の進歩に対する楽観的な見方をも打ち砕いた。こうした中、19世紀半ばに現れ、20世紀になって広く注目を集めるようになった思想的立場が実存主義である。
実存主義の特質
(1) 「この私」の意志・感情
 実存主義 ※(1)は、ヘーゲルらの哲学のように人間や社会についての客観的真理を抽象的思考によって把握しようとするものではなく、また社会主義のように社会の変革によって人間疎外の問題を克服しようとするものでもない。実存主義は、今ここにいて現実に悩んだり苦しんだり、あるいは気晴らしをして楽しんだりしているこの私」の主観的な意志や感情に基礎を置く。
(2) 実存と本質
 「実存 ※(2)」とは「現実存在」の意味で、何ものかが実際にこの世に存在することをいう。実存に対する言葉が「本質」である。本質とは、「それは……である」と一般的な定義で示されるような、そのものが持つ基本的性質のことである ※(3)
 ヨーロッパの伝統的な神学や哲学では、一般に「本質」を「実存」に対して優位に置き、たとえば人間について考えるときは、「人間とは何か?」という問いの立て方をするのが常であった ※(4)
(3) 「この私」の実存
 しかし実存主義では、人間について考えるとき、「本質」よりもまず「実存」を問題とする。人間の本質は、誰についても当てはまるような、あらかじめ規定できるものではない。現実の人間の生き方を考えるには、抽象的・普遍的な人間一般ではなく、「この私」の具体的・個別的な実存というものをまず考えなければならない。そして、「この私」がいかに本来の自己のあり方を取り戻し、人間疎外を克服するかを、自己の主体的な決断による生き方の問題として探究する。
(4) 代表的実存主義者
 今日、一般に実存主義の先駆者 ※(5)といわれるのは、19世紀半ばより独自の思想を説いたデンマークのキルケゴールと、それに次いで登場したドイツのニーチェである。
(5) 実存主義の2つの系統
 実存主義には、大きく分けて2つの流れがある。1つはキルケゴールに始まる宗教的実存主義であり、神のような絶対的存在と人間との(主体的な)関わりを重視する。もう1つが、ニーチェに始まる無神論的実存主義で、神への信仰を否定する。
実存主義
… 抽象的な人間一般ではなく、具体的な「この私」が対象
⇒ 自己の主体的決断を通じた人間疎外の克服
実存主義の先駆者
キルケゴール宗教的実存主義) ⇔ ニーチェ無神論的実存主義
 
キルケゴールの思想
 
 
 
 
主体的真理
(1) ヘーゲル哲学の批判
 キルケゴールの生きた19世紀前半は、ヘーゲル哲学が盛んで、キルケゴールもこれを学んだ。しかし彼は、世界のすべての事象を論理的に必然的なものとして描き出そうとするヘーゲルの壮大な哲学体系に反発を覚えた。そうした方法により、誰にも通用する「客観的真理」が示されたとしても、今ここに生きている「この私」に何の関係があるのだろうか?また、論理的必然性という見地からあらゆるものごとを説明することは、個人の主体的な判断による選択や、それに伴う責任という視点を見失わないだろうかと考えた。
(2) 主体性の回復
 またキルケゴールは、自分と同時代の人々が、大衆の中に埋没して画一化・平均化され、本来の自己を見失って無気力に生きていることを批判している。人間は、自己の生き方を自らの決断において選択し、それに倫理的な責任をもつようなあり方、すなわち主体性を取り戻さなければならないとキルケゴールは主張した。
(3) 主体的真理
 キルケゴールは、22歳の時に描いた日記で、次のように記している。
私にとって真理であるような真理を発見し、……私がそれがために生き、そして死ぬことを心から願うようなイデーを見いだすことが必要なのだ』 〈 キルケゴール著作活動の研究前篇 : 著・大谷愛人 勁草書房 〉
 このような、「私にとって真理であるような」真理を主体的真理という。それは、私がいかに生きるべきかという問題への答えとして、自らの全存在を賭けた「あれか、これか ※(6)の主体的決断を通じて選び取られる真理である。
実存の3段階
 主体的真理を求めて自覚的に生きる人間のあり方を、キルケゴールは特に実存とよぶ。それは、一般的・普遍的なものに解消できない独自の自己、孤独な例外者としてのあり方である。キルケゴールは、人間の実存のあり方を3段階で説明し、人間が真の実存へと目覚める道を示した。
《 実存の3段階 》
美的実存
第一の段階で、「あれも、これも」と欲望のままに次々と新たな刺激や快楽を求め、感覚的に生きている実存のあり方を美的実存という。例としてドン=ファン ※(7)などの生き方があげられる。しかし、この生き方では、結局いつまでも完全に欲望が満たされることはなく、享楽の奴隷となって自己を見失い、倦怠感や虚無感におそわれて絶望 ※(8)におちいる。
論理的実存
美的実存で絶望した者が、自己を取り戻して誠実に生きようとするとき、第二の段階である倫理的実存に目覚める。ここでは「あれか、これか」の選択を真剣に行い、自己の良心に従って他者への義務を果たし、責任をもって社会生活を営もうとする。しかし、人間は不完全な生き物なので、道徳的・倫理的に生きようとすればするほど、自らの有限性や罪深さに気付き、倫理的生活の困難さを思い知り、絶望におちいる。
宗教的実存
こうした不安と絶望が、人間を実存の最後の段階である宗教的実存へと導く。この段階では、人間は絶望を抱きながら神の前に単独者としてただ一人立つ。神と人間との間には、越えがたい本質的な断絶や矛盾があるが、単独者は自らの全存在を賭けた決断によってその矛盾を乗り越え ※(9)、信仰へと飛躍する。人は、自己を存在させた根拠である神の前に一人立ち、自己を神の手にゆだね、本来の自己を回復する。
宗教的実存
 キルケゴールは単独者のあり方について、旧約聖書のアブラハムの話を題材にとりあげた。
 アブラハムは、その子イサクを生贄に捧げよと神に命じられ、指示された場所へ行き、イサクに刃物を振り上げる。その瞬間、神はアブラハムの信仰の深さを認め、イサクは助かる。アブラハムは、わが子を殺す苦しみを乗り越えて信仰を貫き、神に義とされた。しかし、子どもが助かることを事前に彼は知らない。イサクに刃物を振り上げた瞬間、アブラハムは「殺人者」だった。果たして自分はアブラハムのように神を信じられるか?キルケゴールは自らに問いかける。
キルケゴールの課題:主体的真理を見いだすこと
||
あれか、これか」の主体的決断を通じて得られる真理
実存の3段階
美的実存
(快楽・享楽)
倫理的実存
(道徳的・倫理的)
宗教的実存
単独者として生きる)
 
ニーチェの思想
 
 
 
 
反キリスト者
 キルケゴールがキリスト者として生きることに本来の自己の回復への道を見いだしたのとは対照的に、ニーチェ反キリスト者として生きるところに人間本来のあり方を見いだした。
(1) ニヒリズムの到来
 ニーチェの生きた19世紀のヨーロッパでは、伝統的にヨーロッパ的な価値観や道徳観を支配してきたキリスト教が没落していた。そこで、「神は死んだ」とニーチェは宣言する。世界は無意味で無目的なものとなり、人生の意義も見失われ、今やニヒリズム ※(10)の時代が到来したというのだ。ニヒリズムとは、信じるに足る最高の価値や生きる目標、意義などは何もないという虚無主義のことである。ヨーロッパがニヒリズムに陥った原因を、ニーチェは、キリスト教そのものにあると説いた。
(2) 奴隷道徳
 ニーチェによれば、同情・博愛・謙遜・服従や禁欲などキリスト教の説く道徳は、すべて弱者の強者に対する怨恨(ルサンチマン ※(11))から生じた奴隷道徳 ※(12)である。キリスト教は、もともとローマ帝国の奴隷や下層の民衆の間に広まった。現世的な力を持たない彼らのため神の前の平等が説かれ、この世ならぬ彼岸の世界を虚構し、その世界で弱者が救われるとして、現世を支配する強者に対し精神的に復讐しようとしたのだという ※(13)。ニーチェは、奴隷道徳から人間を解放し、人間本来の生命力を肯定する新しい価値を想像しなければならないと説いた。
ヨーロッパのニヒリズム
 ニヒリズムの原因として「社会的困窮状態」や「生理学的退化」やましてや腐敗などを挙げるのは、誤謬である。……そうではなくて、或る全く特定の解釈、つまりキリスト教的道徳的解釈のうちにこそ、ニヒリズムは潜んでいるのである。……キリスト教的道徳が、キリスト教的神に刃向うのである……。……道徳への懐疑が、決定的なものである。彼岸に助けを求める試みをした道徳的世界解釈が、今ではもはや何らの承認をも取り付け得ないで没落した結果、ニヒリズムに行き着いたのである。
『ニーチェ・セレクション』(編・訳:渡邊二郎 平凡社ライブラリー)
ショーペンハウアーの「生の哲学」
 ショーペンハウアーは、ヘーゲルらの理性中心の哲学に反対し、非合理的な生存意志を中心とする「生の哲学」を説いた。彼によれば、世界とは自己の表象に過ぎず、その根底には盲目的な「生存への意志」がある。この意志は、絶えず満たされない欲望を追うため、人生は苦になるという厭世主義を説く。ニーチェはこの「生存への意志」の考えに影響されながらも、厭世主義には満足せず、のちに「力への意志」を説いた。
力への意志と超人
(1) 力への意志
 ニーチェは、生命あるもののすべての根底に、力への意志 ※(14)をみる。それは、常に自分で自分を超克し、強くなり、成長していこうとする生の意志である。本来人間はこの意志に従い、自分自身を乗り越えながら、力強く創造的に生きていくものである。ところが、これまでキリスト教道徳は力への意志を否定し、抑圧してきた。だから今こそ「神は死んだ」という現実を直視し、伝統的な価値を転倒 ※(15)させて、力への意志に基づく新しい価値や目的を設定し、能動的に生きる ※(16)ことにより、人はニヒリズムを超えることができるとニーチェは考えた。
(2) 超人
 このように、自己を乗り越えながらその可能性を極限まで実現し、既存の価値を覆して新しい価値を創造する、主体的な人間のあり方をニーチェは超人とよび、理想像とした。
(3) 永劫回帰・運命愛
 ニーチェによれば、この世界は特定の目的に向かって進んでいくものではなく、無限に同じことが意味もなく繰り返される円環運動だという。これを永劫回帰 ※(17)という。ニーチェは、この世に対するあの世のような彼岸的なものを全面否定し、未来に望みをかけるより、今この一瞬を充実させるべきだと説く。超人はニヒリズムの極限ともいえるこの永劫回帰の世界を勇気をもって直視し、自己の運命として積極的に受け入れる。そして、「これが生きるということか、それならば、もう一度!」と、すべてを肯定し、無意味な運命であっても愛する運命愛をもって、力強く生き抜くことができる存在である。
運命愛
 人間における偉大さを言い表す私の定式は、運命愛である。すなわち、ひとは、何事であれ現にそれがあるのと別なふうであってほしいなどと思ってはならないのであり、しかも、将来に対しても、過去に対しても、永遠にわたってけっして、そう思わないことである。やむをえざる必然的なものを、ただ単に耐え忍ぶだけでなく、ましてやそれを隠したりせずに、……むしろ、やむをえざる必然的なものを愛すること、である。
『ニーチェ・セレクション』(編・訳:渡邊二郎 平凡社ライブラリー)
ニーチェの洞察
ニヒリズムの到来 ← キリスト教没落「神は死んだ
キリスト教道徳
↓↓ 神の死
奴隷道徳 ← 弱者の強者に対するルサンチマン(怨恨)
力への意志(生命あるものの根底)を抑圧
超人による新しい価値の創造 → 永劫回帰を受け入れる運命愛
⇒ ニヒリズムを生き、克服する
注釈
(1) 実存主義
歴史的には実存主義は、合理主義(人間の理性を重んじる立場)や、実証主義(観察できる経験的事実のみを知識の対象とする立場)に対抗できる思想として成立した。
(2) 実存と本質
「実存」は、英語: existence の訳語。語源はラテン語の existentia で、ex "外へ"- sistere "立つ"から"出てくる、現れる、存在する"ことなどを意味する。
これに対する「本質」を意味するラテン語は、英語: essence、ラテン語の essentia で、"存在し続けるもの"が元の意味である。
実存主義では、特に自己の存在を自覚し、関心を持ちつつ生きている人間的な存在のあり方を意味する。
(3) 本質とは?実存とは?
たとえば、「人間は社会的動物である」とか「人間は本来、善なるものである」などは、人間の「本質」を表現しようとした文である。
これに対して実存とは、そうした人間一般の性質ではなく、この文を書いている私、これを読んでいるあなたなど、個々の具体的・現実的な存在を示す言葉である。
(4) 伝統的な神学・哲学=本質優位
キリスト教の考え方では、神が世界を創造したのであり、あらかじめ神のうちに事物の本質に関する設計図のようなものがあって、それに従い個々の現実存在(実存)がつくられたと考えるのが自然だからである。
(5) 実存主義の先駆者
広い意味では、17世紀フランスのパスカルを実存主義の最初の先駆者とみなすこともできる。
キルケゴール
- Søren Aabye Kierkegaard
- [1813~1855]
 デンマークの思想家。コペンハーゲンの裕福な商人の家に生まれ、コペンハーゲン大学で哲学と神学を学ぶ。この頃、厳格なルター主義者であった父親が、かつて貧しい時に神を呪ったということと元女中であった母親と結婚前に関係していたという事実を知り、自ら「大地震」とよぶほどの強い衝撃を受ける。その後しばらく放蕩生活をおくるが、10歳年下の少女レギーネ=オルセンと出会って恋に落ち、1840年に婚約。しかし、一方的に婚約を破棄する。これらの事件が強い影響を及ぼし、深い思索や著作活動に入り、およそ14年間で大量の作品を書いた。しかし、過労やストレスで健康をむしばみ、1855年路上で卒倒し、42歳で死去した。主著『あれか、これか』『反復』『不安の概念』『死にいたる病』など。
(6) 「あれか、これか」
「あれか、これか」というキルケゴールの著書名には対立する概念を「あれも、これも」と観念的な志向の中で統一していくヘーゲルの弁証法に対する批判も込められている。
(7) ドン=ファン
スペインの伝説的な人物で、次々と新しい女性を求め愛の遍歴を重ねる好色家として、多くの文学作品などに取り上げられた。
(8) 絶望
キルケゴールによれば、絶望とは精神の病であり、自己を存在させた根拠である神との関係を逃れて本来の自己を見失った、「死にいたる病」だという。
(9) 神と人間の間の本質的な断絶・矛盾
神と人間の間にみられるような質的な断絶・矛盾は、ヘーゲル流の「あれも、これも」の止揚による総合は不可能で、「あれか、これか」の実存をかけた決断・選択、あるいは信仰の情熱によって初めて乗り越えられるという。キルケゴールはこれを質的弁証法とよび、これに対し、ヘーゲルの量的弁証法とよんで区別した。
ニーチェ
- Friedrich Wilhelm Nietzsche
- [1844~1900]
 ドイツの哲学者。ルター派の牧師の子として生まれる。ボン大学やライプツィヒ大学で古典文献学を学んでいた頃、ショーペンハウアー ※(1)の『意志と表象としての世界』を読み、強い影響を受ける。また、尊敬する音楽家ワーグナー ※(2)との面識を得て交際。若干24歳で、スイスのバーゼル大学から古典文献学の教授として招かれ、古代ギリシアの文献学を専門とした。
 しかし、30歳頃から激しい偏頭痛に悩まされ、34歳で大学を辞職。以後はスイスやイタリアなどの気候の良い都市を転々としつつ、思索と執筆活動に専念した。1889年、44歳のとき精神錯乱を起こして倒れ、正気を失ったまま死去した。主著『悲劇の誕生』『ツァラトゥストラはこう語った』『善悪の彼岸』『道徳の系譜』『力への意志』など。
(1) ショーペンハウアー(1788~1860)
ドイツの哲学者。
(2) ワーグナー(1813~1883)
ドイツの作曲家。音楽・演劇・詩を融合した総合芸術「楽劇」の創始者。代表作「ニーベルングの指輪」など。
(10) ニヒリズム
語源はラテン語の nihil (無)である。19世紀後半、ロシアのツルゲーネフが小説『父と子』で、伝統的な道徳や信仰などをすべて否定する青年を描き、ニヒリストと呼んだことから広まった。
(11) ルサンチマン(ressentiment)
怨恨・復讐の感情などを表わすフランス語。
(12) 奴隷道徳
弱者への同情や自己卑下などを特徴とする奴隷道徳に対し、自らを高貴なものとして肯定し、生の充実感にあふれた強者の道徳を貴族道徳主人道徳)という。
(13) 強者への精神的復讐
ニーチェにとって、ヨーロッパでのニヒリズムの到来は、こうした虚構の価値観に2000年ものあいだ信頼を置いてきたことに対する報いであり、むしろ奴隷道徳のような歪んだ伝統的価値に無条件の信頼を置いてきたこと自体が、すでにニヒリズムだった。
(14) 力への意志
権力への意志ともいう。
(15) 伝統的な価値の転倒
キリスト教に基づく伝統的な価値の序列を覆して、力への意志に基づく新しい(本来の)価値序列に作り変える事をニーチェは価値の転倒とよぶ。
(16) 能動的に生きる
こうした態度をニーチェは能動的ニヒリズムとよぶ。これに対して、癒しや慰め、刹那的な享楽にふけったりすることを受動的ニヒリズムという。
(17) 永劫回帰
永劫回帰は、古代インドの輪廻の思想と似たところがある。しかし、輪廻は迷いの状態であり、そこから解放される解脱が求められた。これに対し、永劫回帰の思想では、生の肯定という立場から、これを積極的に見つめ、引き受けていくべきものとされる。
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