ARTHUR-AQUAMARINE's MEMO

メモ整理中。リンク貼り換え終了。読みかえし3章2まで中。


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◇ 02 仏教の伝来と展開・発展

  • 仏教伝来から律令時代における仏教の受容の特色について理解しよう。
  • 平安時代における仏教の展開について理解しよう。
  • 平安時代末期から鎌倉時代における仏教の展開について理解しよう。

② 鎮護国家と南都六宗

鎮護国家
 奈良時代になると仏教は国家による保護と支配を受け、学僧による経義研究が進展したが、一般には病気や災害を避け、幸福を祈る現世利益の宗教として信仰された。また、国家に対しては仏法によって国家の安泰をはかる鎮護国家の役割を果たすこととなった。聖武(しょうむ)天皇によって、諸国に国分寺・国分尼寺が建てられ、官僧が住して、金光明経(こんこうみょうきょう)などの護国・滅罪の経が読誦された。
《 奈良:東大寺大仏殿 》
聖武天皇「国分寺・国分尼寺の詔(741年)」により
一番目に建てられた「総国分寺」(752年大仏殿完成)
南都六宗(なんとろくしゅう)
 仏教が国教となり、平城京に数多くの寺院が建立されると、鎮護国家と経典の研究を主とする南都六宗が成立した。法相(ほっそう)・三論(さんろん)・倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)華厳(けごん)(りつ)の六宗である。六宗は今日の宗教的な宗派とは異なり、それぞれが特定の経典や理論を研究する学派であった。東大寺を中心に興隆した。数学を学び合うなどし、兼学の僧も多かった。
鑑真
 国家によって僧が保護されたため、僧となるものが増えた。当時僧・尼となるためには国家による許可(官許)が必要であった。許可を得た僧・尼を官僧(官度僧)と言い、得ていない僧・尼を私度僧(しどそう)と言う。朝廷は私度僧を禁止したが私度僧となるものが後を絶たなかった。そこで僧侶となる制度である授戒制度 ※(1)を確立するために中国(唐)の僧 鑑真 ※(2)を招聘し、東大寺に戒壇を設けた。
《 奈良:唐招提寺 》
鑑真が新田部親王の旧邸宅を宮廷から譲り受け寺とした。
六都六宗のひとつである律宗の総本山。
行基
 朝廷に許可なしに僧となる私度僧の他に山林修行や民間布教を行う者も多くあらわれた。とりわけ行基 ※(3)に率いられた私度僧集団は、畿内各地に布教と灌漑や交通の施設を作るなどの社会事業を展開し、東大の大仏造立にも加わった。
仏教の伝来
仏教の受容をめぐって蘇我氏と物部氏が対立
聖徳太子
大乗経典に注釈を施した『三経義疏』を著す
十七条憲法を制定
律令体制化の仏教
仏法による鎮護国家
経典の研究を主とする南都六宗の成立
鑑真 → 東大寺に戒壇を設けた
注釈
(1) 授戒制度
新たに尼僧になる者が戒律を遵守することを10人以上の尼僧の前で誓う儀式。仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んであったが、奈良時代に入ると自誓授戒を蔑ろにする者たちが幅を利かせたため、10人以上の尼僧の前で儀式を行う方式の授戒を制度化しようとした。
(2) 鑑真
中国唐代の有名な律宗の僧。5度の渡航の失敗の後、失明しながらも日本に到来した。東大寺に戒壇院を設立し、日本の授戒制度を確立した。さらに律宗の寺として唐招提寺を建立した。
(3) 行基(668~749)
人々から行基菩薩と呼ばれた。行基に従ったのが私度僧であったため当初弾圧されたが、後に認められ、大仏造立に加わった。大僧正となった。
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