ARTHUR-AQUAMARINE's MEMO

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◇ 02 仏教の伝来と展開・発展

  • 仏教伝来から律令時代における仏教の受容の特色について理解しよう。
  • 平安時代における仏教の展開について理解しよう。
  • 平安時代末期から鎌倉時代における仏教の展開について理解しよう。

④ 仏教の発展

浄土信仰と末法思考
 浄土とは、悟りを完成した仏の国土のことで、清浄な理想の世界のことである。こうした浄土を求め往生を願う信仰が浄土信仰である。諸仏によって浄土は各種あるが、日本では阿弥陀仏の国土である西方極楽浄土が最も多くの人の信仰の対象となったので、浄土教といえば、阿弥陀仏の浄土を求めることをいう。浄土教は飛鳥時代に日本に伝えられ、末法思想が現実味を帯びてきた平安時代中頃から、広く流行することとなった。
空也
 空也は民間仏教の指導者で、各地を遍歴・遊行して人々に阿弥陀仏信仰を説き、「阿弥陀聖(あみだひじり)」「市聖(いちのひじり)」と呼ばれた。  空也は「南無阿弥陀仏」と口に唱える口称念仏称名念仏)を広めた。また貧民や病人の世話、井戸掘などの社会事業を行い、荒野に捨てられた死骸を見れば、念仏を唱えながら火葬した。空也が始めたといわれる踊念仏(おどりねんぶつ)は、鉦(しょう)を鳴らし、鉢や瓢箪をたたき、踊りながら念仏と唱えて、死者の霊を鎮魂するもので、盆踊りの起源となった。
《 空也堂踊念仏図絵画像 》
源信 - 厭離穢土・欣求浄土 (おんりえど・ごんぐじょうど) -
 天台宗の僧侶である源信(恵心僧都 ※(1))は、985年に『往生要集(おうじょうようしゅう)』を著して、汚れたこの世を離れ(厭離穢土)、阿弥陀仏のいる西方浄土に生まれ変わること ※(2)を願い求める(欣求浄土)ことを説いた。『往生要集』に描かれた地獄と極楽の様子は人々に地獄への恐怖と極楽へのあこがれを抱かせた。源信が浄土に生まれるために示した方法は心に阿弥陀仏の姿を思い浮かべる観想念仏であった。
末法思想
 平安時代末期になると、貴族の支配が崩れ始め、相次ぐ戦乱や天災のなかで社会秩序は混乱し、人々は不安と世の無常を痛感するようになっていった。こうした社会不安を背景として、末法思想が広まり人々の絶望感はますます深くなった。社会不安と末法思想の広がりのなか、人々は死後に極楽浄土に往生できるという浄土信仰に惹かれるようになった。
 末法思想とは、釈迦の没後、仏陀の教えが正法、像法、末法というように次第に衰えてゆくという仏教の下降歴史観のことである。正法は仏滅後千年間で、仏の教え(教)と修行(行)と悟り(証)が備わった時代。像法は次の千年間で、教えと修行はあるが、悟りのない時代。末法はその後の一万年で、かろうじて教が説かれるのみで、修行も成就せず悟りに達する人もなくなる時代である。日本では1052(永承7)年から末法に入ったとされた ※(3)
鎌倉新仏教
 比叡山の修行者を中心として、仏教の新しいあり方を求める動きが起こり、そこから一般に鎌倉新仏教と呼ばれている新しい仏教が生まれた。
 理論的・体系的理解を重視した中国の仏教に学びながらも、きわめて単純な行(念仏)や信(信心)にひたすら打ち込むもので、日本独自の展開を見せている。この時代、無知な人や罪人にも救済の道が説かれて、仏教はあらゆる階層の人々に広まることとなった。
 一方旧仏教側でも改革運動が起こった。戒律と密教を修行し、病人の救済や橋の修理などの社会事業を行った真言戒律の叡尊(えいそん)や忍性、華厳宗を復興し、強化につとめた明恵(みょうえ)らが活躍した。
専修念仏(せんじゅねんぶつ)の展開
(1) 法然(ほうねん)
 法然は比叡山で学問・修行に励んでいたが、源信の『往生要集』と、そこに引用されていた唐の善導の教えに導かれて、末法の時代にふさわしい教えは浄土信仰であると確信した。比叡山を下りた法然は『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)を著し、浄土宗を開き、人々の教化に励んだ。法然は源信の重視した観想念仏や念仏以外の諸行による往生は困難であるとして、口称(口で念仏を唱えること)による称名念仏に専念する専修念仏を説いた。
《 『選択本願念仏集』による仏法の分類 》
(2) 聖道門と浄土門
 法然は、仏法を自力の修行や学問によってこの世で悟りを得ようとする聖道門阿弥陀仏の本願にすがって次の生で浄土に往生しようとする浄土門とに分けた。次に浄土門のうちに正行と雑行 ※(4)を分けて雑行を捨てて、正行のうちでも、読誦・観察・礼拝・讃歎(さんたん = 褒めたたえる事)供養を助業として、称名念仏のみを正定業(しょうじょうごう) ※(5)として、念仏さえ唱えれば、他の行はなくとも往生できるとしている。
(3) 専修念仏
 法然の説いた専修念仏は『無量寿経(むりょうじゅきょう)』に由来する。その経の中で法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ) ※(6)は「すべての衆生が、浄土に生まれたいと願って私の名号を唱え、往生するまでは成仏しない」(第18願)と誓願したという。このゆえに、戒律や学問につとめる難行ではなく、誰もができる易行である称名念仏こそ阿弥陀仏の慈悲から発する本願にかなった最も優れた行であるというのである。
選択本願念仏集
 「迷いの世を離れようと思えば、二種の優れた方法のなかで聖道門をそのままにして選んで浄土門に入れ。浄土門に入りたいと思えば雑行(自力修行)を捨てて選んで正行(読経・観仏・念仏・供養)に帰順せよ。正行を実践しようと思えば、助業を脇に置いて正業をひたすらにせよ。正業とは仏の御名を唱えることである」
法然 『選択本願念仏集』
絶対他力
(1) 親鸞(しんらん)
 法然の説いた浄土教の教えを受け継ぎ、新たな教えを生み出して、浄土真宗の開祖となったのが親鸞である。法然の説いた他力をさらに徹底した親鸞の立場は、絶対他力と呼ばれる。
(2) 悪人正機
 親鸞の弟子であった唯円は、『歎異抄(たんにしょう) ※(7)で「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という親鸞の言葉を伝えている。「善人でさえ往生を遂げるのであるから、善人にもまして悪人は往生を遂げるというのである。ここでいう善人とは自力作善の人、自力で学問や修行に努めて善をなすことができる人のことをいっている。しかし、阿弥陀が衆生を浄土に迎えようと願い誓った本来の意図 ※(8)は、どんなに自分の力で善をなそうと努めても成し得ないと知り、自力を捨てて阿弥陀仏の働きをたのむ他力の人(悪人)の救済である。それ故に自己の煩悩と至らなさを自覚して悩む悪人こそ往生できるのだとするのである(悪人正機説)。
(3) 自然法爾(じねんほうに)
 自然とは「自ずからしからしむ」ということで、法爾は「法のはたらきによって、そのようになる」という意味である。親鸞は法然の他力を徹底させて、絶対他力を説いた。親鸞によれば、我々が唱える念仏も我々の力によるのではなく、阿弥陀仏の慈悲の力によってなすに過ぎないという。阿弥陀仏への信心も念仏も、阿弥陀の慈悲の力によって、自ずからそのようになるに過ぎないという。このことが自然法爾である。
(4) 報恩感謝の念仏
 阿弥陀仏の大慈悲による救いに対して感謝して唱える念仏のこと。親鸞は、人は弥陀の本願を信じて念仏しようとしたときに救われているとして、信仰を重視した。自分の意志で念仏して救われるのではなく、阿弥陀仏を信じるときに、救いは確定する。念仏することは阿弥陀仏によって救われていることへの報恩感謝(阿弥陀の恩に報い、救われていることを感謝する)の念仏であった。
一遍(いっぺん)と時宗(じしゅう)
 一遍は法然の影響のもとに念仏を純化徹底して、時宗の開祖となった。一遍は一族の所領争いに巻き込まれ、すべてを捨てて遊行の生活に入り、踊念仏(踊躍念仏(ゆうやくねんぶつ))と「南無阿弥陀仏」の御札を配る賦算(ふさん)によって念仏を広めた。
 一遍は興願僧都への手紙に「念仏の行者は知恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも、貴賤高下の道理をも捨て、地獄を恐るる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また諸宗の悟りをも捨て、一切のことを捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願にはかない候(そうら)え」と言っている。
栄西
(1) 座禅
 はもともとサンスクリット語のディアーナに由来し、瞑想という意味である。インドに起源を持ち、禅が意味する瞑想体験は、仏教が成立した時から重要な意義が与えられていた。禅の教えはボーディダルマ(菩提達磨 南インド出身)が中国にやってきて伝えたとされる。日本には鎌倉時代に宗から禅宗 ※(9)が伝えられた。禅宗は、端坐し、呼吸を整え、精神を集中する瞑想法である坐禅という自力の修行によって仏の知を体得できるとする。
(2) 栄西
 栄西は天台宗の密教の僧として名をなす一方、二度入宋して臨済宗黄龍派の禅を学び、日本に広めた。当時日本では「達磨宗」と呼ばれる禅宗が危険視されて禁止され、栄西の禅も同様に禁止された。これに対する反論として、栄西は『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』を著した。この書の中で栄西は、禅宗は諸教の極理 ※(10)であり、日本国を護る秘法であると説いている。栄西は末法の世でも、戒律を守り心身を清浄にして坐禅につとめるならば悟りに至ることが出来ると説いた。栄西は坐禅公案 ※(11)による禅問答を通じて、悟りの境地は文字によっては表現できないということ(不立文字 ふりゅうもんじ)、真理の伝達は文字や言葉によらず、以心伝心によるということ(教外別伝 きょうがいべつでん)、日常生活において自在に働いている心そのものについて気付くこと(直指人心 じきしにんしん)、自己に本来そなわる仏性を見抜いて仏となること(見性成仏 けんしょうじょうぶつ)を説いた。
道元
 道元は比叡山で修行していたとき、この世界はそのまま永遠の仏の世界であり、地獄は地獄のまま、草木は草木のまま成仏しているのであり、それ故にそれを改める必要はないし、修行の必要はないという本覚思想に疑問を持った ※(12)。この疑問を抱えて道元は中国に渡り、禅の修行に励んだ。その結果得た結論が、坐禅修行は不可欠である。しかし、修行の結果仏になるというのでもない。坐禅修行していること、それが悟りであり、そこに仏の世界が開かれるということであった。帰国後、道元は初めて和文で本格的に禅を説いた『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) ※(13)を著し、曹洞宗(そうとうしゅう)を広めた。
(1) 只管打坐(しかんたざ)
 道元は焼香・礼拝・念仏・看経(かんきん 経典を読むこと)よりも、すべてを投げ打ち、心身を尽くしてひたすら坐禅する只管打坐を説いた。しかも、静坐黙想するだけが修行ではなく、洗面や清掃など寺院における一つひとつの行為が修行であるとした。
(2) 身心脱落
 道元は中国で天童山の如浄に出会い、そこで身心がそのまま抜け通ってしまったような「身心脱落」を経験する。しかし、道元にとってはこの悟りとしての経験がそこで終わりというのではなく、それこそが本当の修行の始まりであった。その心身の脱落の様子を道元は「仏道を習うということは、自己を習うということである。自己を習うということは、自己を忘れることである。自己を忘れるということは万法 ※(14)に実証されることである。万法に実証されるということは、自己の身心も他者の身心も、脱落し果てることである」と表現している。
(3) 修証一等
 修証一等とは、修(修行)と証(悟り)が一つのもの、すなわち修行が終わってはじめて悟りに達するのではなく、修行そのものが悟りなのだということである。
日蓮宗と法華経
(1) 日蓮
 日蓮は故郷(安房国(あわのくに))で天台宗を学んだ後、比叡山で天台数学を治めた。そこで『法華経』こそ仏陀の最高の教えを説いたものとの信念を得て、日蓮宗を開いた。彼は末法の世に『法華経』を広めることが、日本国と人々を救う唯ひとつの道であると考えた。他の鎌倉仏教の開祖たちが、主として個人の救済を説いたのに対して、『法華経』への信仰を中心に日本の国を救おうとしたところに、日蓮の特徴が見られる ※(15)
(2) 唱題
 日蓮は妙法蓮華経とは単なる経典の題目ではなく、法華経に説かれた宇宙の真理を意味しているとして、「南無妙法蓮華経」の七文字の題目を唱える唱題によって、仏の功徳を受けて、誰でも仏になれると説いた。
(3) 法華経の行者
 日蓮は『法華経』の迹門(しゃくもん)(前半部分)を理の立場、本門(後半部分)を事の立場として明確に区別し、特に本門を重視した。日蓮は法華経に説かれている久遠実成の仏、すなわち釈迦は仏として永遠に常在していることを重視し、末法の時代であっても、法華経に帰依するならば、国家は安泰となり、誰もが救われる仏国土が実現するとして、『立正安国論』を著した。日蓮は自身を法華経に登場する菩薩として自覚し、末法の世を『法華経の行者』として生きようとした。日蓮は他宗を排撃して「無念無間禅天魔真言亡国律国賊(無念=無間地獄に堕ちる教え、禅宗は天魔のしわざ、真言宗は亡国の邪法、律宗は国賊、という意味)(四箇格言)と主張した。仏教には人々を導く方法として、相手を穏やかに説得する摂受(しょうじゅ)と相手を強く責め立てて迷いを覚まさせる折伏(しゃくぶく)とがあるが、日蓮は折伏の方法をとった。そのために幕府や他宗からさまざまな迫害を受けたが、日蓮はかえって法華経の行者としての自覚を深めて、自己の信念を貫いていった ※(16)
旧仏教の改革
 平安末から鎌倉時代にかけて起こった仏教を鎌倉新仏教というのに対して、それ以前からあった天台宗や真言宗などの仏教を旧仏教といっている。顕密仏教と言われる天台や真言の大寺院は大きな荘園を有し、巨大な経済力をもとに政治的な影響も強かった。旧仏教、特に天台の中心となる思想が本覚思想である ※(17)。本覚思想では、本覚がすでに実現していると考えられ、現実がそのまま究極的な真理の実現であると考えられた。本覚思想は修行不要論となると批判されたが、他方ではありのままの自然を重視する中世日本の文化に適合し、幅広い影響を与えた。
注釈
空也 - [903~972]
 平安中期の僧であるが、詳しいことは不明である。はじめ私度僧として諸国を遊行し、「聖」として活躍した。のち比叡山で授戒し、天台僧となってからも庶民の間で活動した。
(1) 僧都(そうづ)
僧官のひとつ。僧綱のなかの第2位。僧正 > 僧都 > 律師。
(2) 往生
浄土に生まれ変わることを往生という。
源信 - [942~1017]
 天台宗の僧侶で恵心僧都とも呼ばれる。名利を嫌って横川(比叡山 延暦寺 横川中堂)に隠棲した。主著『往生要集』は浄土信仰を広めるのに大きな役割を果たした。
(3) 末法思想(正法・像法・末法)
仏滅後を正法、像法、末法と分ける時代区分は中国で初めて唱えられた。インドには末法という考えはなかった。インドでも正法・像法という考えはあったが、正法は正しい仏法、像法は正しい仏法に似たものという意味で、そこに時代や時代区分という意味はなかった。
叡尊 - [1201~1290]
 叡尊戒律復興に大きな役割を果たした。叡尊は当時の戒律衰退を憂えて、授戒の師がいないとき、仏前で自ら誓って授戒する自誓授戒を行って、東大寺を拠点に戒律復興運動を進めた。また、非人救済など積極的に社会事業を行った。
明恵 - [1173~1232]
 明恵は華厳宗の立場に立つが東大寺を中心とした既成の数学に飽き足らず、故郷の紀伊などで自らの創意工夫によって学問と修行をおさめ、京都の栂尾(とがお)の高山寺を拠点として、独自の教団を形成した。明恵は『摧邪輪(さいじゃりん)』を著して、法然の浄土宗の考えを、第一に悟りを求める菩提心を否定している。第二に自力修行の立場に立つ聖道門を否定していると批判した。また「あるべきようは」を主張し、「僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり」と世俗の人間は世俗の人間としてのあり方をまっとうするのが仏道にかなうことだと説いた。
法然 - [1133~1212]
 美作(岡山県)の押領使の子として生まれる。父が非業の死を遂げ、12歳で比叡山に入る。源信の『往生要集』を読んで、浄土教に入る。善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』を読み、専修念仏に開眼した。43歳の時比叡山を下り、東山の麓大谷の吉水を拠点として専修念仏を広める。76歳の時、念仏停止(ねんぶつちょうじ)の勅命が下り、土佐に流される。後許されて京都に戻り、亡くなった。著書『選択本願念仏集』。
(4) 雑行
雑行とは造像・起塔などの善行を行うことである。
(5) 正定業
正定業とは正しく定められた行いのこと。専修(選択)念仏は念仏を選ぶことであるが、法然のいう選択は、我々が選ぶということではなくて、阿弥陀仏が我々のために選択してくれたという意味である。
(6) 法蔵菩薩
法蔵菩薩は阿弥陀仏の神話的な前世の話に登場する菩薩で、阿弥陀仏が前世で沙門だったときの名前である。
親鸞 - [1173~1262]
 京都に下級貴族の子として生まれる。父の勧めに従って比叡山に上り、慈円のもとで出家した。天台宗の僧として修行する。29歳の時法然に出会い、弟子となった。35歳の時、念仏停止の処分に連座して、越後に流罪となる。その際僧籍を剥奪され、以後「僧にもあらず俗にもあらず」の道を進むことになった。流罪が解けた後、東国で布教を進める。63歳で帰京し、弟子や門徒に支えられて著述や教化を続けた。
(7) 歎異抄
『歎異抄』は親鸞の没後、師の教えが誤って伝えられているのを嘆いて、弟子の唯円自身が見聞したところを書いたもの。全体は18条からなっている。この書は、浄土真宗において長らく禁書とされていて、広く一般に読まれるようになったのは明治の末になってからである。
(8) 阿弥陀の衆生を救う願い
親鸞がここで阿弥陀仏の願いを誓ったこととは、先の法然の専修念仏にあった『無量寿経』の第18願を根拠としている。
一遍 - [1239~1289]
 伊予国の出身。10歳で出家した。日常の行住坐臥(人間の日常生活の基本的な行動。歩く、立止る、座る、横たわることの4つをいい、四威儀ともいう)の生活をつねに臨終のときと会得して念仏を唱える阿弥陀教に基づく信仰を説いた。
(9) 禅宗
「禅宗」が中国において成立したのは唐代の末期の頃である。
(10) 極理
究極の教えのことである。
(11) 公案
悟りに至る手段として師が門弟に与える問。
栄西 - [1141~1215]
 備中(岡山県)の国に生まれる。14歳の時、比叡山で授戒し、天代数学、密教を学ぶ。1187年二度目の入宋を果たし、天台山で臨済禅を学び、帰国後北九州に禅を広め、禅寺も建立した。朝廷から禅宗弘通(ぐつう:仏教が広く世に行われること)を停止され、『興禅護国論』を著して、禅宗弘通の意義を説いた。のち幕府の信任を得、鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を建立した。建仁寺は天台・密教・禅兼修の道場となった。
(12) 本覚思想への疑問
この疑問は「仏性を有する人間が、なぜ改めて発心(ほっしん:仏陀の悟りを得ようと決意すること)し悟りを求めるのか」という問いであった。
(13) 正法眼蔵
『正法眼蔵』は1231年から1253年にわたって書かれた全95巻の書。只管打坐・修証一等など道元の思想が語られている。
(14) 万法
万法とはわれわれを取り巻く環境世界のことである。
道元 - [1200~1253]
 早くして両親を失い、14歳で比叡山に入る。その後、建仁寺の栄西のもとで禅を学び、23歳の時明全とともに宋に渡った。曹洞宗(そうとうしゅう)の如浄に出会い、厳しい修行の後「身心脱落」を体験した。帰国後曹洞宗を開く。越前(福井県)に永平寺を開き、以後没するまで坐禅修行や弟子の育成にあたった。主著『正法眼蔵』。
日蓮 - [1222~1282]
 安房国(千葉県)に生まれる。地元の天台宗清澄寺で出家した後、10年間にわたり鎌倉、京都、奈良の寺で天台宗をはじめさまざまな宗派を学ぶ。清澄寺に帰り、「法華経の行者」として歩み出す。『立正安国論』を著し、幕府に提出するが、伊豆の流罪となる。赦免後、蒙古の使者が来日するに際して、諸宗や幕府を批判したので、佐渡に流される。赦免後身延山に隠棲する。以後この地から門信徒の教化や激励などを行った。
(15) 法華経の特徴
日蓮教は『法華経』への信仰を中心に日本の国を救おうとした。このことは、日蓮の「われ日本の柱とならん、われ日本の眼目とならん、われ日本の大船とならん」という言葉によく表れている。
(16) 日蓮の信念=日蓮は菩薩
仏教ではブッダは三つの身を持つとされる。法身(ほっしん)・報身(ほうじん)・応身(おうじん)である。法身は法(ダルマ=真理)を身体としている者のことで、報身は長い修行をし、その結果として獲得した仏身のこと、応身は大悲により衆生を救済するために、この現実の世界に肉体をもって現れた仏のこと。
(17) 本覚
本覚とは衆生の迷いの心の中にある悟りの原理で、同時に目標として設定される悟りのことでもある。本覚を自覚しないで迷いの状態にあるのが不覚で、不覚から本格に向かって進むことが始覚である。
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