ARTHUR-AQUAMARINE's MEMO

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◇ 03 儒教の伝来と日本化

  • 朱子学の受容と発展について理解しよう。
  • 日本の陽明学の主張と発展について理解しよう。
  • 古学による儒教の日本的発展について理解しよう。

② 朱子学

藤原惺窩(ふじわらせいか)
 京都五山の一つ相国寺の禅僧であった藤原惺窩は、人たるの道は人間関係としての人倫のほかに求められないと考えた。そこから世俗を否定する「出家間の道」を批判し、人倫を絶って仁や義を無視する仏教の教えは間違いではないかと疑問を感じて、還俗して儒学者となった。
 惺窩は理が天道と人心を貫いていると考える。すなわち、「気」に関わる以前の天道は理であり、この理は人の心にも備わっている。人が理に従うと天人一体となり、俗に従うと禽獣に近くなるとして、天人一体を説いた。惺窩の系統は京学と呼ばれている ※(1)
林羅山(はやしらざん)
(1) 林羅山
 藤原惺窩に学んだ林羅山は、惺窩の推薦によって、徳川家康に招かれたのをきっかけとして、以後徳川4代の将軍に仕えて、朱子学の官学化を推し進めた。朱子学を信奉した羅山は、万物を貫く理を正しく認識し、欲望を抑え、敬(つつしみ)の心を持つことによって、心と理を一体化させること(居敬窮理 >> 参照ページ)を説いた。羅山は、幕府の定めた封建的身分秩序を天理によって理論付け、幕藩体制を支えようとした。
(2) 上下定分(じょうげていぶん)の理
 朱子学によれば、万事万物は「理」と「気」からなる(理気二元論)。羅山はこの理を「上下定分の理」としてとらえ、天地自然に尊卑高低の理があるように、人倫(人間社会)にも尊卑上下や分(身分・職分)の定まった理があると説いた。そして、君は尊く臣は卑しいという差別がなければ国は治まらないとして、封建的な身分秩序を思想的に根拠づけた。またこの理は具体的には「礼儀・法度」として表れており、人々はこれに従わなければならないと説いた。
(3) 存心持敬(そんしんじけい)
 存心持敬とは常に心の中にを持つことを心がけることである。敬は、ここでは「うやまう」の意味ではなく、「つつしむ」である。すなわち、私利私欲を慎むことである。羅山によると、人の心には理が内在しているが、身体(気)に起因する私欲が理の発現を妨げている。そこで私利私欲を慎む敬によって本来の心を保ち、理(天理)と一体となって生きることができる。この天理と一体化したあり方を天人合一という。
山崎闇斎(やまざきあんさい)
 南学 ※(1)で学んだ山崎闇斎 ※(2)は、を基本的思想とした。闇斎は敬を自分の心、すなわち外界からの触発によって情のきざす以前の心(未発の心)を正すことと考えた。さらにこの敬は社会的には臣下の道としてとらえられ、君主に対し、具体的には天皇に対しての臣下の心のあり方を説くものとなった。また神道の神と朱子学の理とを結び付け、神人合一を説く垂加神道(すいかしんとう)を唱えた。京都に私塾を開き、多くの門弟を養成して崎門学派(きもんがくは)を形成した。幕末の尊皇思想に影響を及ぼした。
朱子学者たち
(1) 木下順庵(きのしたじゅんあん)
 京学派の松永尺五の弟子で、将軍:徳川綱吉の侍講となった。門下に室鳩巣(むろきゅうそう)雨森芳洲(あまのもりほうしゅう)新井白石(あらいはくせき)がいる。
(2) 新井白石 ※(3)
 木下順庵の門下で、甲府藩侍講から将軍補佐役となり、それまでの武断政治から文治政治への転換期に活躍した。白石は朱子学の「格物 ※(4)」の考えを歴史研究に展開し、合理的で実証的な研究を進めた。歴史に関しては『読史世論(とくしよろん)』『古史通(こしつう)』などの優れた書を表している。1708年屋久島で捕えた宣教師シドッチを尋問し、『西洋記聞』を著した。この書で、天文、地理などの知識においては西洋が優れているが、形而上の問題では儒教の方が優れていると論じた。
(3) 雨森芳洲
 木下順庵の門下で、対馬藩に仕え、文教・外交を掌(つかさど)り、藩政に関わった。中国語・朝鮮語に通じていて、朝鮮との外交を担当し、功を成した。
(4) 貝原益軒(かいばらえきけん)
 福岡藩の医者でもあった貝原益軒 ※(5)は、朱子学の観念的傾向を嫌い、窮理を重視する朱子学の合理的精神を発展させて、実証的研究に向かった。益軒は天地のあわれみを仁と捉え、この天地のあわれみに愛をもって答える「報恩」を説いた。この報恩の念が親に向かえば孝となり、君に向かえば忠となるとした。孝の内容として父母の志を養うことと体を養うことの二つがあった。益軒は博学で知られ、本草学・教育・歴史など多方面にわたった業績を残した。著書に『大和本草』『養生訓』『和俗童子訓』などがある。
《 近世以前の儒教 》
儒教の伝来
4~5世紀頃
朱子学の伝来
鎌倉時代以降、禅僧によって学ばれる
儒仏習合
儒教による神道の理論付け 儒家神道、垂加神道
注釈
(1) 京学と南学
惺窩の系統が京学と呼ばれるのに対して、土佐の南村梅軒を祖とする学派を南学(南海学派)と呼ぶ。江戸初期に儒学者:谷時中が出て学風を固めた。南学は、野中兼山や山崎闇斎らを輩出した。
藤原惺窩 - [1561~1619]
 播磨の国(兵庫県)に、藤原定家(ふじわらのていか)の12代子孫として生まれる。京都五山の一つ、相国寺の禅僧となるが、朱子学に傾倒して、還俗して儒学者となった。弟子に林羅山や松永尺五(まつながせきご)らがいる。著書に『仮名性理』がある。
林羅山 - [1583~1657]
 京都に生まれ、建仁寺に入るが、18歳で儒学、特に朱子学に夢中になった。22歳で藤原惺窩に師事し、惺窩の推挙によって、幕府の侍講となった。以後50年間幕府の政治・数学のことに関わった。徳川家光から江戸近郊の儒学振興のため上野忍岡の地に土地を賜り家塾を開いた。のちにそれが昌平坂(しょうべざか)学問所となり、羅山の子孫は代々大学の頭となって幕府の学問にあずかった。著書に『春鑑抄(しゅんかんしょう)』『三徳抄』がある。
(2) 山崎闇斎 - [1618~1682]
京都の鍼医の子として生まれた。7歳で比叡山に登った。下山し、土佐に移った。土佐で野中兼山らと交わり、谷時中で学んで朱子学に服した。29歳で還俗して京都に帰り、儒者となった。
(3) 新井白石 - [1657~1752]
幕府に参加して文治行政を推進した。著書に『折りたく柴の記』がある。
(4) 格物
物事の道理を窮めただす意。理想的な政治を行うための第一段階。以下、致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下に至る。
(5) 貝原益軒 - [1630~1714]
備前(福岡県)黒田藩の人。
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