ARTHUR-AQUAMARINE's MEMO

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◇ 04 国学の展開

  • 国学の成立と展開を理解しよう。
  • 国学は古代人の生き方をどのようなものととらえたか理解しよう。
  • 復古神道の果たした歴史的役割を理解しよう。

① 国学の成立

国学
 江戸時代中期になると、古学派の方法の影響を受けて、『古事記』や『万葉集』のなかに、日本固有の道(古道)を発見しようとする国学が興った。幕末になると、国学には国粋的傾向が強まり、尊王思想の形成に大きな影響を与えた。
契沖(けいちゅう)
 契沖は国学の祖といわれるが、儒学における古学運動とは別に、日本の古典を対象に帰納的・実証的な研究方法を確立した。契沖は色を好むという自然的存在としての人間性のうちに「なさけ」という価値を見いだし、それが我が国の文化の特徴であると述べた。また万葉集を実証的に研究し、水戸藩の依頼を受けて万葉集の注釈書である『万葉代匠記』を著した。契沖は古典によって古典を解釈するという態度を基本とし、自己の先入観や独断を捨て、古人の心と一つになって古典を理解しようとした。
荷田春満(かだのあずままろ)
 荷田春満は契沖の万葉学の影響を受け、古義学の学問研究の方法を取り入れながら、国学を発展させようと努めた。春満の学問は国史・律令・有職故実(ゆそくこじつ) ※(1)の研究と和歌と神道の三つからなっていた。京都の東山に国学の学校を創設しようと、幕府に対して『創学校啓』を提出したが認められなかった。
賀茂真淵(かものまぶち)
 賀茂真淵は荷田春満の歌学と荻生徂徠の古文辞学の方法を取り入れて、儒教や仏教などの外来思想の影響を受けない日本人の心情を古典のうちに見いだそうとした。言葉の表面的解釈ではなく言葉の響きのなかに沈潜し、作者の心の動きを追体験することを意図した。真淵は『万葉集』のうちに男性的で大らかな気風としての「ますらをぶり(益荒男振り/丈夫振り)」を見いだした。また力強く素直な「高く直き心」を古代の理想的な精神であるとした。この「高く直き心」を保っていれば、古代ではすべてが上手くいったが、中国からの「からくにぶり」や平安朝の「たをやめぶり(手弱女振り) ※(2)」によって忘れ去られてしまったと主張した。
注釈
契沖 - [1640~1701]
 契沖は摂津(兵庫県)に生まれた。13歳の時出家して、真言宗の僧侶となった。その後下川辺長流と出会って古典に親しんだ。契沖の学問の中心は古典の注釈であった。
賀茂真淵 - [1697~1769]
 真淵は浜松在の村社の穪宜(ねぎ 神職の職称)の子として生まれた。37歳の時妻子を残したまま、当時江戸にいた荷田春満を頼りに江戸に上り学問一途の生活に入った。のち、田安宗武(徳川吉宗の子。賀茂真淵を召し抱え国学を学ぶ)を通して万葉の世界に分け入ることになった。著書に『国意考』がある。
(1) 有職故実
古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。またそれらを研究すること。
(2) たをやめぶり
「手弱女振り」と書き、女性的な優しい状態や心のことである。
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