ARTHUR-AQUAMARINE's MEMO

メモ整理中。リンク貼り換え終了。読みかえし3章2まで中。


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◇ 04 国学の展開

  • 国学の成立と展開を理解しよう。
  • 国学は古代人の生き方をどのようなものととらえたか理解しよう。
  • 復古神道の果たした歴史的役割を理解しよう。

② 本居宣長と惟神の道

本居宣長
 本居宣長は、契沖以来の国学の運動を大成した。宣長は言葉の研究を通じて人間の心と行為を研究するという考えを確立した ※(1)。宣長は和歌の研究においては『古今和歌集』以降の女性的で優美な「たをやめぶり」を重視した。また和歌や『源氏物語』を研究し、和歌や物語などの文芸の本質は「もののあはれ」にあると主張した。さらに『古事記』などの研究によって、古人の心・古道を明らかにした。
もののあはれ
 宣長によると、「あはれ」は、見るもの聞くもの触れるものに心が感じて出る嘆息(なげき)の声である。しかし、「あはれ」は単に悲しいことにのみ言われるのではなくて、嬉しいこと、面白いこと、楽しいことなど何にしても興がわいたものについても言われる。「もの」は、その「あはれ」を広く言う際に使う言葉で、何事であれ感じるべきことに出会って感じることが「もののあはれ」である。人間はみな「もののあはれ」を知る心を持っている。それ故に感動すべきことに感動することができ、感動を通して物事や事象を正しくとらえ、また他人の悲しみや苦しみに共感することもできる、と説いた。「もののあはれ」は感動する心であるが、こうした態度は情に流される弱く愚かなこととされやすい。しかし、こうした批判はうわべを飾る偽りである。
漢心(からごころ)
 宣長は「もののあはれ」を知るためには、儒学や仏教に感化された心、すなわち、道理に基づいて物事を判断しようとする「漢意」を排除すべきことを主張した。「漢意を取り去ることは、学問をして人間の生きる道を知ろうとするならば最初にしなければならないことである。漢意が除き去られない限り、古書を読んでも、考えても、古代の精神を理解することはできない」とされた ※(2)
惟神(かんながら)の道
 惟神の道とは「神の御心のままの道」という意味である。宣長は『古事記』と『日本書紀』の研究を通して、日本古来の道である古道としての惟神の道を見いだした。漢ながらの道は老子のいう自然の道でも、古文辞学のいう人為の道でもなく、神代のまま、神の御心のままに従って、ことさらに議論を加えない道である。神は人間に善いことをすることもあり、悪いことをすることもある。また世の中は善人が衰え、悪人が栄えることもある。しかしこれは人間の推し量ることのできない神の行いなのである。善くても悪くても、生まれついたままの人間本来の心である真心に立ち戻り、真心に従って生きることが、道にかなった生き方であった。
注釈
本居宣長 - [1730~1801]
 伊勢国(三重県)松坂の木綿問屋に生まれ、京都で医学修行のかたわら、古文辞学や契沖の歌論を学んだ。郷里で小児科医を開業するかたわら、『源氏物語』などを講義した。34歳の時に松坂に宿泊した賀茂真淵に面会し、『古事記』研究の志を告げて、励まされた。以後真淵の門人となり、約35年間『古事記』の研究に取り組み、注釈書である『古事記伝』(全44巻)を完成した。著書に『玉勝間』『源氏物語玉の小櫛』などがある。
(1) 言葉と行為と心
宣長は言葉・行為・心を「言(ことば)、事(わざ)、心」と表現した。真淵が言葉・心の2つを問題にしたのに対して、宣長は言葉・行為・心の3つを問題にした。
(2) 漢意
漢意に対して、日本民族固有の精神を表す言葉が「大和心」である。大和魂ともいわれる。
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