ARTHUR-AQUAMARINE's MEMO

メモ整理中。リンク貼り換え終了。読みかえし3章2まで中。


TOPスポンサー広告 ≫ 第3章 日本人としての自覚 >> 06 西洋近代思想の受容 >> ② 啓蒙思想の展開TOPETHICS AND PHILOSOPHY ≫ 第3章 日本人としての自覚 >> 06 西洋近代思想の受容 >> ② 啓蒙思想の展開
Edit
Edit

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | | Comments(-) | Trackbacks(-)
Edit
△ TOP
Edit
Edit

◇ 06 西洋近代思想の受容

  • 明治維新前後の西洋文明の受容の仕方について理解しよう。
  • 啓蒙思想について理解しよう。
  • 自由民権の思想について理解しよう。

② 啓蒙思想の展開

新時代の思想
(1) 文明開化
 明治維新によって、日本は新しい政治体制のもと近代国家の樹立に向けて出発することとなった。明治政府は、富国強兵・殖産興業をスローガンとして、文明開化を推進し、西洋文明の積極的な受容を図った。
(2) 明六社(めいろくしゃ)
 明治6年に結成された明六社と、そこに集まった人々は、『明六雑誌』を発行して欧米の思想を紹介しつつ、近代日本にふさわしい新しい思想を確立しようと努めた。
 明六社には森有礼(もりありのり)を中心に、福沢諭吉中村正直 ※(1)西村茂樹 ※(2)西周(にしあまね) ※(3)加藤弘之などが集まった。雑誌では民撰議院の設立や言論・出版の自由、財政や貿易に関する経済論、男女の平等、信教の自由や宗教論、日本語のローマ字表記の是非、自然科学論などが盛んに論じられた。
福沢諭吉
(1) 啓蒙思想家
 明六社の人々の中で、啓蒙思想家として大きな役割を果たしたのが、「独立自尊」を唱えた福沢諭吉である。
(2) 天賦人権論
 福沢は『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり』(『学問のすゝめ』)と、人間本来の平等を主張した。さらに自由にお互いに人の妨げとならずに安楽に世間を渡っていく権利を天から賦与されていると説いた(天賦人権論)。
(3) 実学
 福沢は、人間は本来平等であるという一方、現実における貧富の差や貴賤の差を指摘し、それを学問の有無によるとした。そこで彼は、今日の自然科学にあたる数理学を中核として、社会科学(地理学、歴史学、経済学など)を含んだ「人間普通日用に近き実学日常の生活に役立つ学問)」を身につけるべきことを説いた。
(4) 独立自尊
 それまでの日本の封建道徳を支えた東洋の儒教主義に欠けているものは、有形のものとしては「数理学」であり、無形のものとしては「独立心」である、という。
 無形の独立心とは、封建的な権力関係・人間関係に慣れきった「精神の奴隷(メンタル・スレーヴ)」から脱却して、一人一人が自己の判断で行動する文明の精神である。福沢は、個人が自立することによって、はじめて国家の独立も達成されるとして、「一身独立して、一国独立す」と説いた。
(5) 文明論
 福沢は『文明論之概略』において、文明の発達段階を、第一の、文字はあるが学問・文芸がない野蛮の状態、第二の、文明に向けて展途上にある半開きの状態、さらに第三の、学問が盛んで、商業・工業が発達している文明の状態に分けた。日本は半開きの状態であって、ヨーロッパを範として文明の状態を目指すべきことを説いた。
(6) 脱亜論
 晩年の福沢は官民調和・富国強兵を支持し、現今の野蛮なアジアを抜け出て、西洋文明諸国の仲間にはいり、中国・朝鮮に対する交際は、西洋諸国に習うべきであるとした脱亜論を唱えた。
脱亜論
 左れば、今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待ちて共に亜細亜を興すの猶予あるべからず。寧ろ其の伍を脱して、西洋の文明国と進退を共にし、其の支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従ひて処分すべきのみ。悪友を親しむ者は、共に悪名を免かるべからず。我れは心に於いて、亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。
福沢諭吉 『時事新報』
明六社
啓蒙思想の普及、森有礼中村正直西周
福沢諭吉
『学問のすゝめ』天賦人権論、独立自尊、「脱亜論」
注釈
(1) 中村正直(1832~1891)
中村正直が翻訳したスマイルズの『西国立志篇』、ミルの『自由文理』は啓蒙の書として、広く読まれた。
(2) 西村茂樹(1828~1902)
西村茂樹は儒教による国民道徳の回復を唱え、『日本道徳論』を著した。
(3) 西周(1829~1897)
西周はオランダに留学し、実証主義、功利主義、カントの永遠平和論などの影響を受けた。哲学、主観、客観、理性、意識などの多くの哲学用語を造った。
福沢諭吉 - [1834~1901]
 大阪の中津藩の蔵屋敷に武士の子として生まれる。19歳で長崎に遊学しオランダ語を学ぶ。翌年大阪の緒方洪庵の塾に入り、塾長も務めた。23歳の時、江戸で蘭学塾を開いたが、蘭学が役立たないことを知って、独学で英語を学ぶ。1860年幕府の遣米使節の随員として咸臨丸(かんりんまる)で渡米した。その後もヨーロッパに渡航。これらの経験を『西洋事情』に著した。明治六年に明六社の結成に参加し、啓蒙思想の普及をはかった。
Edit
△ TOP
TOP <<PRE ENTRY NEXT ENTRY>> TITLE LIST HOME
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。