ARTHUR-AQUAMARINE's MEMO

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◇ 07 明治国家体制と近代思想の日本的展開

  • 国家主義の思想について理解しよう。
  • キリスト教の日本的受容について理解しよう。
  • 文学者による近代的自我の確立について理解しよう。

② キリスト教の受容

キリスト教と日本人
 明治新政府が誕生した後もキリスト教は禁止され、その後諸外国の抗議などによって、1873年(明治6年)ようやくキリスト教は解禁された。外国人宣教師を通じてキリスト教は伝道されたが、特にプロテスタントが知識人たちの間に広まった。新島襄植村正久新渡戸稲造らは、キリスト教精神に基づく教育に力を注ぎ、青年たちに大きな感化を及ぼした。
内村鑑三
(1) 二つのJ
 内村鑑三イエス(Jesus)と日本(Japan)という「二つのJ」に仕えることを念願し、「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、すべては神のために」 ※(1)という、自らの選んだ墓碑銘の通りに生きた。礼節・節倹・正直などの儒教的な武士道精神を愛し、その弱点を個人の内面的な倫理の力で克服するため「武士道に接ぎ木されたるキリスト教」を主張した。
《 新島襄 》
(1) 二つのJ
 内村鑑三イエス(Jesus)と日本(Japan)という「二つのJ」に仕えることを念願し、「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、すべては神のために」 ※(1)という、自らの選んだ墓碑銘の通りに生きた。礼節・節倹・正直などの儒教的な武士道精神を愛し、その弱点を個人の内面的な倫理の力で克服するため「武士道に接ぎ木されたるキリスト教」を主張した。
(2) 不敬事件
 札幌農学校時代にキリスト教に触れ、アメリカ留学の期間に神との出会いを経験した内村は、「教育勅語」への不敬事件 ※(2)によって、第一高等中学校講師の職を追われることとなった。後年彼はこの事件について「吾らは国に反いてこの事をなしたのではない。良心の声を重んじ、良心に反くのは国を欺くのであると信じたから、このことをなしたのである」と語っている。内村は天皇制を否定したのではなく、キリスト教として、天皇の神格化を拒否したのである。
(3) 非戦論
 当時の日本は日清戦争、日露戦争という二つの戦争を経験した。内村は日清戦争を正義のための戦いとして支持したが、日露戦争に対しては、絶対平和の立場から「余は日露非開戦論者であるばかりではない。戦争絶対廃止論者である。そうして人を殺すことは大罪悪である」と非戦論を展開した。
(4) 無教会主義
 また神との直接の霊交を求めるピューリタン的信仰の純粋さを求める内村は、聖書を信仰の拠り所として、教会制度を批判した。彼は、キリストへの帰依と祈りのあるところならば、どこでも「教会」であると考えた。無教会主義の教会とは、青空を天井とし、花咲く大地を床とし、神自身を説教師とする教会であるとした。
二つのJ
 私どもにとりましては愛すべき名とては、天上天下ただ二つあるのみであります。其一つはイエスでありまして、其他の者は日本であります。是れを英語で申しますれば其第一は Jesus でありまして、其第二は Japan であります……私共はこの二つの愛すべき名のために私どもの生命を捧げようと思うのであります。イエスは私どもの未来の生命のある所でありまして、日本国は現在の生命のある所であります。そうして神を信ずる者にとっては未来も現在も同一でありまする故に私どもに取てはイエスと日本国とは同一のものであります。即ち私どもの信仰は国のためでありまして、私どもの愛国心はキリストのためであります。私どもはキリストを離れて真心を以て国を愛することが出来ないように、また、国を離れて熱心にキリストを愛することは出来ません。私どもが基督教を信じた第一の理由はそれが私どもの愛する此日本国を救う唯一の能力であると信じたからであります。
内村鑑三 『失望と希望 - 日本の先途』
新島襄、植村正久、新渡戸稲造のキリスト教受容
(1) 新島襄
 新島襄は儒学とともに洋学を学び、漢訳聖書に感銘して1864年国禁を犯して渡米。キリスト教の洗礼を受けて、アマースト大学やアンドーヴァー神学校で学び、宣教師となった。キリスト教主義の大学を設立する志を持って帰国、1875年同志社英学校(現:同志社大学)を設立して教育と布教に努めた。
(2) 植村正久
 植村正久は横浜の宣教師の私塾でキリスト教に接する。1873年に洗礼を受け、東京一致神学校で学んで伝道師となった。東京神学社を創立し、福音を根付かせるために尽力した。また『日本評論』などを刊行し、キリスト教の視点から幅広い文明批評を行った。不敬事件に対して、植村は教育勅語を礼拝の対象として絶対視する危険を指摘し、教育勅語の制定に反対した。日露戦争に対しては、自衛の必要を説き、主戦論を唱えた。
(3) 新渡戸稲造
 新渡戸稲造は内村鑑三とともに札幌農学校に入り、キリスト教の洗礼を受け、卒業後渡米して大学で学んだ。新渡戸は若い頃から「太平洋の架け橋とならん」と日本と西洋をつなぐことを使命とし、英文で『武士道』を著して日本の特質を欧米に紹介した。
武士道
 武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。それは古代の徳が乾からびた標本となって、我が国の歴史の腊葉集中(さくようしゅうちゅう:押花の作品集)に保存せられているのではない。それは今なお我々の間における力と美の活ける対象である。それは何ら手に触れうべき形態をとらないけれども、それにかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。それを生みかつ育てた社会状態は消え失せて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。
新渡戸稲造 『武士道』
キリスト教受容の課題
外国人宣教師と国家からの独立
内村鑑三
武士道に基づくキリスト教の理解、二つのJ無教会主義不敬事件非戦論
新渡戸稲造
武士道
注釈
(1) 内村鑑三の墓碑銘
原文は英語で I for Japan; Japan for World; World for Christ; All for God. である。
(2) 不敬事件
「教育勅語」の奉読式で勅語に対して敬礼をしなかった事件。
内村鑑三 - [1861~1930]
 高崎藩士の家に生まれ、クラークの札幌農学校に学びキリスト教徒になった。アメリカのアマスト大学などで学び、確固たる信仰を得て帰国。教育勅語不敬事件により、神への信仰をますます固めた。1897年、朝報社に入社して、社会評論を展開するとともに、『東京独立雑誌』を創刊した。1900年には『聖書の研究』誌を創刊した。藩閥政治、足尾銅山鉱毒事件、理想国の活動など激しい社会批判の論陣を張り運動を続けた。特定の宗派や教会に属さない無教会主義の立場は独特の信仰として、当時の一高生や帝大生に大きな影響を与えた。『キリスト教徒の慰め』や『求安録』、『余は如何にしてキリスト教徒なりし乎』などの著作がある。
新渡戸稲造 - [1862~1933]
 岩手県に武士の子として生まれる。内村鑑三とともに札幌農学校でキリスト教の洗礼を受ける。アメリカやドイツに留学し、帰国後キリスト教に基づく教育に尽力した。国際連盟事務次長としても活躍した。
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