ARTHUR-AQUAMARINE's MEMO

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◇ 03 モラリスト

  • モラリストとは、どのような人たちを指すのか、理解しよう。
  • モンテーニュの「ク=セ=ジュ」という言葉の意味を理解しよう。
  • パスカルの人間観をデカルトの人間観と比較してみよう。

② パスカル - 考える葦

数学・科学と直観
 パスカルは、法服貴族(世襲貴族ではなく、国王の売る官職を購入することにより貴族に任ぜられた貴族 ⇔ 帯剣貴族(旧来からの貴族))の家庭に生まれたが、学校には通わず、素人ながらも科学者と交流を保ち深い科学的知識を持っていた父から直接に教育を受けた。結果として、スコラ哲学の教育を受けずに、はじめからデカルト達が打ち出した最新の学問環境のもとで育っていったのである。彼は、16歳で『円錐曲線論』を書き上げ、19歳で「計算機」を発明し、23歳で後の「パスカルの原理」 ※(1)の発見につながる「真空」実験を行うなど、数学や科学の領域で天才ぶりを発揮した。しかし、彼は、われわれが真理を知ることが出来るのは、単なる理性によってだけではないと見抜いていた。『パンセ(瞑想録)』 ※(2)によれば、幾何学で用いる「空間、時間、運動、数」という語や「空間は三次元がある、数は無限である」といったことの認識は理性によるのではなく、心情の直観によるという。理性に基づく議論は、この基礎の上に成り立つものとした。このような彼の認識論の根底には、人間を魂と理性の結合とみる人間観があった。
幾何学的精神と繊細な精神
 しかしながら、パスカルはアウグスティヌスの言葉をひきながら、神学の中にデカルトの哲学を閉じ込めようとした同時代の思想家とは距離をとり、デカルトの独創性を擁護しもした ※(3)
 その上で彼は、機械論的自然観の立場に立つデカルトがもたらした無限の無機的宇宙の沈黙を畏怖した。「͡この無限の空間の沈黙が私をおののかせる」。パスカルは、心情によって、この宇宙空間における神の不在を感じ取り、底知れぬ恐怖を覚えたのである。
 彼にとっては、この宇宙の沈黙は、たとえそれがわれわれ人間と神との交流を拒絶するようなものであったとしても、受け止めざるを得ない不可避のものであったのである。
 彼は、人間の精神を二つに分けて考えた。それは理性を使って論理的に思索する能力である幾何学的精神と、物事の背後にある原理や愛を直観する判断の能力としての繊細な精神である。理性のみを重視したデカルトに対し、パスカルはこの両方が必要であるとしたが、特に、神を感じるのは、理性ではなく心情の直観であるとして、繊細な精神に重きを置いた。
 彼にとっての神とは、デカルトが行ったように理性によってその存在を証明できるような哲学の神ではなく、悩める「アブラハムの、イサクの、ヤコブの」神であり、人間の悲惨さを愛によって救済する、生きた神なのである ※(4)
「考える葦」の偉大さと悲惨さ
 「考える葦」である人間は、みずからが死すべきこと、宇宙が自分より優越することを知っており、みずからの無力さと惨めさを自覚していることにおいて宇宙にも優越する偉大な存在なのである。
 一方で、「われわれの尊厳は、思考のうちに存する」とは言うものの、人間の偉大さを形作るはずの思考は、現実においては愚かで滑稽なものにすぎない。真理と正義を渇望しつつもそれを実現することができないわれわれは、空虚な感情に囚われたまま不安定な行動をしていくことになる。彼は、それを悲惨と呼んだ。われわれは、人生の中で肉体や財産や欲求に振り回され、「偶然」の思考によって生きている。パスカルは、このような人間の現実を表現するために、あえて人間を風にゆれる弱々しい「一本の葦」と表現した。意志と精神の力によって至福と完全に到達できないからこそ、イエスの贖罪とそれに対する信仰が必要となってくるのである。
考える葦
 人間は自然のうちで最も弱い一茎の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひと滴も、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶすときにも、人間は、人間を殺すものよりも一層高貴であるだろう。なぜなら、人間は自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからであろう。宇宙はそれについては何も知らない。それゆえ、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえ、われわれはよく考えるように努めよう。そこに道徳の根源がある。
『パンセ』(訳:松浪新三郎 人文書院)
「気晴らし」から神の愛の秩序へ
 このような無為に耐えられない人間は、悲惨から目をそむけ気を紛らせようとする。賭博、娯楽、社交、学問、出世競争や戦争といった「気晴らし」に身をやつし、不幸の意識の根源にある「倦怠」や「空虚」から目をそむけ、未来の目標を仮定し、それを達成することによって幸福を実現しようとするのだ。華やかな社交界に出入りしたものの満足を得ることを出来なかったパスカルは、この壁を乗り越え、人間をこのような状況から脱出させることを可能にするのは、理性ではなく、神への信仰という賭けであると思い至った ※(5)
 神の真理のもとに生きることを熱望したパスカルは、晩年、ジャンセニズム派 ※(6)の修道院に通いながら、神の愛の秩序に従って生きようとすることに、心の安らぎを求めた。
「中間者」としての人間
 人間は偉大さと悲惨さ、無限と虚無の二面性を持ち、その中間を揺れ動く存在である。パスカルは、「神を知りながらみずからの(原罪を負う人間の)悲惨さを知らなければ高慢になる。みずからの悲惨さを知りながら神を知らなければ絶望に陥る。イエス=キリストを知ることはその中間をとらせる」と述べている。中間とは、本来不安定な場所であり、そこには安らぎはないはずである。彼にとっては、中間の悲劇性を知り、そこからの離脱を心から求めることが、信仰だったのである。
モンテーニュ
エセー(随想録)
我は何を知ることができるか?(ク = セ = ジュ?)
懐疑主義→自己反省と謙虚、寛容を説く
パスカル
パンセ(瞑想録)
考える葦」の偉大さと愚かさ
幾何学的精神繊細な精神→「気晴らし」から愛の秩序へ
中間者としての人間と信仰
注釈
パスカル
- Blaise Pascal [1623~1662]
 フランスの科学者にしてモラリスト。若くして、数学や物理学などの分野で大きな功績を残した。「水圧の原理」である「パスカルの原理」を発見したことで有名。信仰と世俗の間を揺れ動いたが、「回心」を果たし、晩年は修道院に出入りし、キリスト教について深く思索した。主著『パンセ(瞑想録)』。
(1) パスカルの原理
気圧の単位であるヘクトパスカルは、彼の名にちなんだものである。
(2) 『パンセ(瞑想録)』
「パンセ」とは、もともとは「考えること」、その成果としての「思想」を意味する言葉で、題名としての『パンセ(瞑想録)』は、キリスト教を擁護するために彼が準備していた断章・警句が寄せ集められた、彼の遺稿集である。
(3) デカルトの擁護
アウグスティヌス「われ あやまつならば われ有り(Si fallor, sum.)」からデカルトが「われ考える ゆえに われ有り(Je pense. donc he suis.)」を導き出したことを、焼き直しであるが独自性があると擁護している。
パスカル『幾何学の精神について』(パスカル:デカルトのコギト(考える我)について)…「わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う――《物質は自然にかつ絶対に思考する能力を持たない》という原理と《わたしは思考するゆえに私は存在する》というそれとは、果たしてデカルトの精神においてと、同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと、同一であろうか」
(4) 神
パスカルは、「私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できることなら神なしで済ませたいと思っただろう。しかし彼は、世界を動きださせるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにはいかなかった」と批判している。
(5) 無為に耐えられない人間
この文脈で、パスカルをキルケゴールなどの実存主義(認識する存在がいなくても世界は存在する)の先駆者として位置付ける見方もある。
(6) ジャンセニズム派
17世紀のフランスの貴族の間で流行したキリスト教思想。人間の意志の力の限界を唱え、人間本性の罪深さを強調した一派。イエスズ会と対立し、異端とされた。
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