ARTHUR-AQUAMARINE's MEMO

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◇ 05 合理論の展開

  • デカルトにおけるコギトと神の関係、物心二元論について理解しよう。
  • スピノザの神即自然の考え方と身心平行論について理解しよう。
  • ライプニッツのモナド論と予定調和説について理解しよう。

② デカルト - 身心二元論

「良識」と「四つの規則」
 デカルトは人間の持つ理性ratio:ラチオ)を重んじ、合理論の祖とされる。彼は、理性を良識bonsens:ボン=サンス)とも表現した。良識とは物事を正しく判断する能力であるが、記憶力や想像力と違い、生まれながらに誰にでも公平に分配されている。よって、この良識を正しく適用すれば、人間に共通する知恵と徳に到達することができることになる。彼は、既知の事柄の論証を主としたスコラ論理学に代わる真理発見の方法として、次の「四つの規則」を示した。
《 四つの規則 》
【1】 明晰・判明の規則
自分の精神に明晰判明に示されること以外は、とりあげない。
明晰(clear)とは、それ自身ではっきりしていること。
判明(distinctive)とは、他のものから明瞭に区別されていること。
【2】 分析の規則
できるだけ小さな部分に分けて分析すること。
【3】 総合の規則
単純なものから複雑なものへと思考を展開すること。
【4】 枚挙の規則
見落としが無いように全体を列挙し、全体を見渡すこと。
「自然の数量化」と学問の統一
 この「四つの規則」は、デカルトが「幾何学」や「解析学」の学問的手法を考察し ※(1)、導き出したものである。彼は、絶対確実な一般的・普遍的真理を前提とし、そこからの論証によって、具体的・個別的な結論を導き出す演繹法(deduction)をとる数学に学問の理想を見た。彼は、この方法を用いてあらゆる学問を体系化 ※(2)し、統一しようとした。それを樹木に例えるならば、自然を数量化してとらえる新たな自然学が幹となり、機械学・医学・道徳などがそこから枝分かれするというものである。
 この体系をまとめ上げるためには、教会やスコラ哲学という権威に頼るのではなく、自分の理性だけに従う必要がある。彼は、そのために、樹木の幹となる新たな形而上学を作り上げようとした。デカルトは、この新たな哲学を構築するまでの間は、「最も穏健な中庸な意見」に従うことを自らの「仮の道徳」(=暫定道徳)とした。
方法的懐疑とコギト
 そこでデカルトは、普遍的な心理を求めるために、教会の権威、伝統的学問、常識など、少しでも疑わしいものはあえて懐疑のふるいにかけた(=方法的懐疑 ※(3):method of doubt)。例えば、遠くから見て四角い塔が、近づいてみれば実は丸い塔だったということがある。よって、外的感覚に依存した知識は、確実とは言えないことになる。また、私が今ここにいるといったことや、この手が私のものであるといったような内的身体感覚は確実と言えるのだろうか。デカルトは、夢の中でリアルに身体活動を経験することと覚醒時にそうしていることの区別がつかないということを根拠に、内的感覚の信憑性も疑う。さらには、2+3=5というような数学的真理すらも、「欺く神」 ※(4)がそう思わせているのかもしれないとして、懐疑の対象とした。
 すべてを疑った深淵で、根源的な事実が浮かび上がってくる。例えすべてが夢で、この身体すら存在しないとしても、疑っている自分、意識作用の存在は疑い得ないということである。デカルトはこのことを「われ思う、ゆえに我あり」Cogito ergo sum:コギト=エルゴ=スム) ※(5)と表現し、哲学の第一原理とした。
方法的懐疑
 たとえば私たちの感覚はときどき私たちを欺くので、どんなものでも感覚が私たちに想像させる通りものはないと私は想定しようと思ったのです。……それ以前に〈論証〉とみなしていた論拠をどれもこれも間違ったものとして退けました。そして最後に、……それまで自分の精神に入り込んでいたものはみな、私の夢の幻以上に本当ではないと仮想することに決めました。しかし、すぐ後で、そんなふうにどれも間違いだと考えたいと思っている間にも、そう考えている自分は何かであることがどうしても必要だということに気付きました。そしてこの「私は考える、だから私は有る」という真理はいかにもしっかりしていて、保証付であるため、……私はこの真理を、求めていた〈哲学〉の第一の原理として、疑惑なしに受け入れることが出来ると判断しました。
『方法叙説』(訳:三宅徳嘉 小池健男 ・ 白水社)
神の存在証明と理性の認識能力の保証
 次にデカルトは、コギト(=考える我)から出発して、神の存在を証明していく。
 人間は、不完全な存在であるのに、完全なる観念を持っている。その観念は、完全なる神が与えたものとしか考えられない。よって、私の中に完全な観念が存在する原因としての神は存在する。完全なる神は、(人を欺く神とは違い)誠実であり、理性の認識能力を保証する。よって、私が「明晰に判明」に認識するものはすべて真ということになり、一旦斥けた数学的真理も確実なものとみなされることになる。
 そうなると、神が作った自然=物体的世界を、神から担保された理性と数学的真理により解読していく以上、両者は当然調和することになる。このように方法論的懐疑から出発した、確実な知識の吟味は、自然を目的論的に理解する古い思考習慣を一旦捨てた上で、神の存在を認める純粋知性としての精神が、外界を数学的に把握するという新しい世界認識の途を開いた。
精神と物体の二元論
 方法的懐疑の時点では、そのつどの意識作用としてのコギトの存在が確実なだけで、コギトを持続する実体と認めることはできなかった。神の存在が証明されたことにより、神が一瞬一瞬を保存してつなげてくれることになり、昨日の自分と一年前の自分の連続性・同一性が保証されることになった。この時点で、精神とは身体に依存せずとも同一性を保つ持続する実体であるとみなすことが出来るようになった。
 デカルトにおいては、神と精神と物体が真の実体 ※(6)であり、世界を構成する三大要素となっていく。
【1】 精神
思惟(思考)を属性 ※(7)とする実体
【2】 物体
延長 ※(8)(量的な拡がり)を属性とする実体
 精神と物体は、他に依存することなく独立して存在する実体とされ、互いに全く異なった原理のもとに存在することになった。このような物心二元論の見方は、一方の極に、純粋主体としての精神を置き、他方の極に、自然とは神の意図や人間の意志から切り離された物体とその運動であるとして単純化する機械論的自然観をもたらした。物体は、内在する「目的」を脱色され、単なるモノとして、主体=コギトにより客体化される対象となった。自然は延長を持つ、測定可能な量の拡がりであり、物体の運動は、座標軸という量的空間のなかで必然的な因果法則に従うものとして理解されていく。このような自然を運動する自動機械であるとする見方が、近代の自然科学の発達を支えていく。
近代的自我と情念のコントロール
 以上のような二元論の見方は、神や教会や共同体の支え無しに、自己の自由意志に基づき自己の在り方を決定できる近代的自我を持つものとして人間をとらえていくことになる。
 理性の下に学問と生き方を統一しようと考えたデカルトは、精神としての自己が、「驚き・愛・憎しみ・欲望・喜び・悲しみ」などの身体からもたらされる情念(pathos)を、理性的な自由意志によりコントロールすることが重要であると主張した。これらの情念は、身体から生じた受動感情であり、それによって精神の能動的な動きが阻害された状態であるととらえた。これに対しデカルトは、自由意志を働かせることで、自由な主体として自己自身を支配する心の気高さを保ち、自己自身への誇りとしての「高邁の精神」を持つ近代人の生き方が可能であると説いたのである。
身心問題とゾンビ問題
 デカルトは、物心二元論を生身の人間にも適用し、人間は精神と身体からなるとした(=身心二元論)。この場合、一人格の中で精神と身体はどのような関係であるかが問題となってくる(=身心問題)。デカルトは、精神とは純粋主体であり延長を持たないとした一方で、精神は脳のなかの松果腺という部位に宿るとも説明している。ここに、動物精気が入り込んでいて、精神と肉体をつないでいるという。精神が動物精気から独立して作動すれば意思となり、主体性が保たれる。ところが、肉体に刺激が与えられると動物精気が活性化し、「驚き・愛・憎しみ・喜び・悲しみ」などの情念が生じ、これが理性=精神の働きを妨害することになる。
 アポリア ※(9)を抱えたデカルトの身心二元論に対し、脳科学の研究成果を取り入れ、心の動きも脳という体の働きから生じるとする立場(身心一元論:心と脳は同一)に立つのが現代の心理学の主流となりつつある認知心理学である。心をある種の情報処理のシステムとして理解し、コンピュータのプログラムと比較しようとする研究者もいる。
 医学や脳科学が発達して、脳の神経細胞の状態までも含めて普通の人間と区別することのできない「(哲学的)ゾンビ」を作ることが可能になったとしよう。そのゾンビは、恋をしている時の「甘酸っぱい」気持ちや、模擬試験が返ってきた時の「ウンザリ」感といった感覚的質感(=クオリア)を持つことができるだろうか(=ゾンビ問題)。なぜなら、われわれの心が持つ感覚的質感(=クオリア)は、脳細胞の物質的反応から生み出されているだけではなく、それぞれの人間に固有の「生きられた経験」に基づく現象的意識を背景にしているからだ。
 現代の哲学における「身心問題」は、精神と身体を図式的に結びつけることではなくて、必ずしも自明的ではない、「心」とは何か、「意識」とは何か、「身体」とは何かを問うという問題設定に変化しつつある ※(10)
注釈
デカルト
- Rene Descartes [1596~1650]
 フランスの哲学者。数学者。法服貴族の家庭に生まれ、イエスズ会の名門学院でスコラ教育を受けた。虚弱ながら並外れた数学の才能を持つ少年ルネは、院長より朝寝の特権を与えられた。以後、彼の偉大な発見の多くは、朝のベッドの中でなされたという。大学では法学と医学を学んだが満足できず、20歳のとき「世間という大きな書物」から学ぼうとパリ・アムステルダムへと旅に出る。30年戦争のときにはオランダで軍隊にも入隊した。自分の歩むべき道を探していた彼は、ついに夢の中で「自分の内なる理性があらゆる学問の絶対的な基礎になりうる」という確信に至り、学問全体の革新を行う使命感を固める。思想的に最も自由な雰囲気のアムステルダムに移り住み哲学の研究に専念する。それまでのアリストテレス-スコラ哲学を否定して、「新たな形而上学」を構築し、「近代哲学の父」と呼ばれることになる。1649年、スウェーデンの女王に招かれてストックホルムへ向かう。しかし、早朝の講義は虚弱だった彼の身体に無理を強い、肺炎のため53歳で死亡した。主著『方法序(叙)説』『哲学原理』『省察』『情念論』。
(1) 幾何学と解析学
数学者としてのデカルトは、平面上の点を二つの実数で表現するために、座標軸を用いる「解析幾何学」を発明し、それまでバラバラに行われていた「解析学」と「幾何学」を統一化した。X軸とY軸からなる直交座標軸を「デカルト座標軸」と呼ぶ。
(2) 学問の体系化
デカルトによれば、諸学問は一個の良識によって構成されるので、あらゆる局面で「四つの規則」を臨機応変に活用さえすれば十分な成果が得られるものであった。その点で、人間の知恵の網羅的な体系を学問の理想とする、ライプニッツの「普遍学」や「百科全書」派の発想とは異なっていた。
(3) 方法論的懐疑
方法論的懐疑は、ゴルギアスの不可知論やヒュームの懐疑論とは違い、確実な知識の存在を前提にその発見を目指す手段としてあらゆるものを疑うというものである。
(4) 「欺く神」
デカルトは、「全能の神」はあらゆることを為し得る能力を持ち、「人を欺く能力」さえも持っていると考えた。
(5) Cogito ergo sum
より正確に表現すれば「私は考えている(ergo cogito)、ゆえに、考える私であるところの私がある(ergo sum)」ということになる。
(6) 実体
実体(substance)とは、他のものに依存せず、それ自身で存在するもの。
(7) 属性
属性(attribute)とは、実体の本質を構成する形式。
(8) 延長
延長(extend)とは、量的・空間的な拡がり。
(9) アポリア
アポリアとは、ある理論の枠組み自体からもたらされる理論的限界のこと。
(10) 問題設定の変化
現象学のフッサール、その影響を受けた実存主義哲学のハイデガーやメルロ=ポンティ。スピノザの身心平行論を研究したドゥルーズなど。
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