ARTHUR-AQUAMARINE's MEMO

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◇ 06 経験論の展開

  • ベーコンからヒュームに至る、経験論哲学の流れを理解しよう。
  • ベーコンの提唱した帰納法の意義と限界について理解しよう。
  • ロックの認識論、ヒュームの懐疑論について理解しよう。

⑥ ヒューム - 懐疑論

懐疑論
 ヒュームは、あらゆる「真理」といわれているものは、疑わしいと疑問を投げかけた。なぜならば、彼は、人間は知覚された経験をこえては何も知ることができないと考えたからである。よって、「必ず~だ」「すべて~だ」という知識や真理と言われているものも、個々の経験を人間が連合させたものにすぎず、そこには飛躍推定がある。さらには、原因と結果の結びつきである因果法則も、人間の習慣が生み出した信念にすぎず、自我さえも知覚の束に過ぎないものとして、実体であることを否定された。
物体の存在という信念への疑い
 いったんコップを見て、目を閉じて、また目を開くと同じコップが見える。目を閉じていた間も、このコップは意識から独立して存在していたと私たちは信じるが、そのことの根拠は何だろうか。コップが意識に与えられたのは「先ほど」と「いま」であり、その間も存在し続けていたというのは、2つの表象が「似て」いることから「推定」されたもので、1つの信念に過ぎない。こうなると、「物事が意識から独立して客観的に存在しているということも、1つの信念にすぎず、それを証明することはできない」ことになる。ヒュームは、「どんな条件で私たちが事物の存在を信じるようになるのかと問うことはかまわないが、物があるのかないのかと問うことは無益なことだ」と述べた。「世界の客観性」「自然科学の客観性」と言うときの「客観性」が、「主観が外界の客観世界と一致すること」であるという素朴な答えは通用しなくなったのである ※(1)
因果性、自然の斉一性(一様性)への疑い
 Aが原因となり、結果としてBが起るというのが因果性であるが、そこには「必然性」の観念が伴っている。しかし、この「必然性」の観念は習慣的な「信念」にすぎず、二つのことがいつも相並んで生じるということを何度も経験しているうちに「必ずそうなる」と思い込むだけである ※(2)。さらに近代科学は、自然は規則的に運動しているという「自然の斉一性」を大前提にして成り立っているが、このこと自体も一つの信念であって、理性的に厳密に証明できるわけではない。つまり因果関係は自然の斉一性を前提にし、自然の斉一性は因果関係を前提にするという悪循環のなかにある。
人間への疑い
 ヒュームは、ロックやバークリーが観念と呼んでいたものを「知覚」と呼んだ。「知覚」とは「心にはじめて飛び込んできたときの感覚」である「印象」と、後にその印象を心の中で反芻し、淡くイメージされた「観念」から成り立つ。印象を心の中で呼び起こし、それが二次的な印象となり、さらにそれが観念としてコピーされ…。われわれの「心」とは、そのつど流れ生成していく「知覚の束(bundle of perceptions)」、「観念の束(bundle of ideas)」にすぎず、まとまりを持った心や人格といったものは存在しないとヒュームは考えた。われわれは、寒暖、明暗、快苦などの知覚を持つことから、それらの知覚をまとめる「自我」の存在を「推定」してしまっているだけだということになる。
「理性は情念の奴隷なり」→「穏健な懐疑主義」
 ヒュームは、われわれ人間の生きる目的は理性によって設定されているわけではなく、そのような目的が我々の行動を動機付けているわけではないと考えた ※(3)。われわれの生きる現実は、欲望や情熱や好みや感情などの情念によってあらゆる行動が動機づけられているというのである ※(4)(=「理性は情念の奴隷なり」)。そのときに、習慣として身につけた観念連合に従うことになるが、論理的な確実性がないという理由で何も行動せずにいるよりは、試しに行動して失敗したとしても、何もしないよりはマシではないかとヒュームは考えた。このような彼の考え方の背後には、数学はともかく、哲学・政治・科学・宗教などに関わる人間の生き方においては、決定的な証明などありえないことを認め、それでも日常生活が何とか回っていることを信頼していく、「穏健な懐疑主義」と呼ばれる経験論的な立場があった。
《 経験論のまとめ 》
 精神物体観念(idea)
ロック ◎←経験
バークリー × ◎←神
ヒューム × × ◎←印象
ベーコン
「機械技術」の肯定
/
知は力なり
4つのイドラの除去
/
三段論法 → 帰納法
ホッブズ
機械的唯物論:人間自動機械論
ロック
精神白紙説タブラ=ラサ
観念は経験より生じる(=生得観念の否定)
バークリー
存在することは知覚されること
(=物体も神が支える観念の中にあるのみ)
ヒューム
懐疑論: 知覚された経験以外は疑わしい → 人間の自我も「知覚の束」に過ぎない
「理性は情念の奴隷なり」
注釈
ヒューム
- David Hume [1711~1776]
 スコットランドの貴族の子として生まれる。フランスで大使秘書を務め、その時に親交を結んだルソーを伴って帰国するが、ルソーの猜疑心から不幸な確執を招く。その後、国務大臣などを務め財を為し、故郷エディンバラに戻る。哲学の他、歴史・宗教・政治・経済など多方面の主題について執筆活動を展開したが、無神論者との疑いを晴らすことが出来ず、大学教授となることはできなかった。アダム・スミスとも交流があった。主著『人間本性論(人性論)』。
(1) 存在は信念であり、証明できない?
カントは、この問いかけを「合理論の『独断の眠り』を覚ます」と表現し、「認識の客観性」とは何かという問いから、彼の批判哲学を始めていく。
(2) 因果性と必然性の観念
因果律そのものを否定するので、そこでは自然科学が成立しないばかりか、2+3=5という数学的認識さえも、蓋然的真理に過ぎないことになり、どんな人にも通用する知識の根拠が分からなくなってしまう。
(3) 理性による動機付け
「理性だけが源泉になる動機付けもあり、道徳的動機付けはその典型である」とするカントの立場はこの対極に立つ。
(4) 情念による動機付け
彼は道徳を論じる際も、何が動的行為なのかの規範を示すことをせずに、われわれが「善い」「正しい」としている事情についての因果関係を記述していくという経験主義的手法をとっている。
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